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1959(昭和34)年4月10日、上皇陛下と美智子さまはご結婚された。お二人の出会いの場は、あまりにも有名な軽井沢のテニスコート。出会った日から、皇太子明仁親王殿下(今の上皇陛下)と美智子さまは、テニスのあとにたびたび友人を交えてお茶を飲みに行かれている。そんなとき、明仁殿下は美智子さまと同じ飲み物を注文されることもあったという。東京にいては自由に行動できない明仁殿下にとって、淡い青春の日々であったことだろう。今回は、テニスのあとに喫茶店で味わった、甘いココアの物語である。

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昭和30年9月から始まった皇太子のお妃選び

2025年4月5日、悠仁さまが筑波大学にご入学された。悠仁さまは現在、18歳。新しい大学での生活に胸膨らませているという。同時に妃選びの話も、ちらほら聞こえはじめている。

かつて、上皇陛下がまだ皇太子明仁親王殿下であったころ、お妃の話題が新聞に初めて登場したのは、1951(昭和26)年7月である。明仁親王殿下は18歳、まだ学習院高等科3年であった。朝日新聞の朝刊に「(明仁親王の)ご意思を尊重しつつ、まず北白川宮家、久邇宮家の順に選考」といった内容の記事が報じられた。

実質的なお妃選びが始まったのは、それから数年経った1955(昭和30)年9月からである。宮内庁次長は記者会見で「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、できるだけ広い範囲から選ぶ方針」と語ったが、そうは言っても、当時は皇太子妃には旧皇族か旧華族から選ばれるのが一般的な認識であった。まさか民間から皇太子妃が選ばれるとは、誰も想像すらできなかったのである。

ご結婚前の美智子さま。隣は、母の正田富美子さん

テニスの試合後に「あのお嬢さんは、どういう方なのか?」

1957(昭和32)年8月18日、軽井沢会テニスコートでハンディ・トーナメントが行われていた。メンバーは毎年夏に軽井沢に避暑に訪れる良家の子女たちで、この日のトーナメント戦は夏の終わりのお別れの催しであった。ABCトーナメントとも呼ばれ、実力の違うメンバーがペアを組んで試合をする。例えば、実力がAとC、BとBがチームを組むのである。

その日は明仁殿下も出場されるというので、スタンドは観客でにぎわっていた。軽井沢の別荘で家族と夏を過ごしていた美智子さまも、このトーナメントに参加していた。

皇太子明仁殿下とダブルスを組んだ早稲田大学の学生は、実力派として知られていた。皇太子組は順調に勝ち進み、トーナメントは4回戦に入った。対戦相手は、美智子さまと13歳のフランス少年の組である。スタンドで見守る人々は、皇太子組が優勝と予想していた。

第1セットは6-4で皇太子組。第2セットは5-7で美智子さま組が勝った。続く第3セットは、多くの人の予想を覆して、1-6で美智子さま組が圧勝したのだ。明仁殿下がビシビシとボールを打っても、美智子さまはよく走って追いつき、フワリとだが確実にボールを返す。そのうち焦った殿下にネットやアウトが増え、負けてしまったのだ。

「打っても打っても返ってくる。どんな球にも、あきらめず食いついてゆこうとする……。あの粘り強さには負けたなあ。女性にもああいう人がいるんだね……」
まるで自分に言い聞かせるように、明仁殿下はつぶやかれたという。

「あのお嬢さんはどういう方で、どこの学校に通われているの?」
明仁殿下は、ペアを組んだ早大生に尋ねられた。早大生が「今年、聖心女子大学を卒業した、日清製粉社長のお嬢さんですよ」と説明した。

試合後、浜尾実東宮侍従(当時)が明仁殿下と美智子さまを引き合わせた。
「こちらが正田美智子さんです。そして、こちらがお母さまです」
これが、明仁殿下と美智子さまとの初めての出会いとなった。

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白いテニスウェアで颯爽と自転車に乗ってくる美智子さま...
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高木 香織
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