浅田次郎の名エッセイ

「大きなお世話」が社会を作る!? 浅田次郎が“説教親父”に徹するワケ

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第93回は、「大きなお世話について」。

目上の説教を聞き、それを目下に申し送ることが生活の基本

私は説教オヤジである。

年寄りに育てられ、体育会、自衛隊、度胸千両的社会を経て今日に至ったのであるから、人生も半ばを過ぎればこうなるのも当然であろう。

私の生きてきたタテ型社会は、目上の説教を謙虚に聞き、それをそっくりそのまま目下に申し送ることが生活の基本であった。是非を考えるゆとりなどなかった。

先輩、上官、兄ィの言葉は「ご託宣」であり、白だと言われれば黒いカラスも白いのであった。説教を聞くことは義務であり、長じてそれを目下にタレることもまた己れの義務だと考えていた。

ずっとそういう組織におれば、今ごろは立派なOB、鬼軍曹、あるいは貫禄十分の兄ィであったのだろうけれど、ゆえあってものすげえリベラルな社会に転業してしまい、タダの説教オヤジになり下がった。

日ごろ付き合っている編集者たちとは、当然のことながら上(かみ)も下(しも)もない。共同作業者、もしくは商売相手の関係である。

作家の方々とも、上下(かみしも)はあるようで実はない。昔の文士のような師弟関係というものはどこにもないし、先輩後輩という認識はあることにはあるが、それぞれが独立した才能なのだから挨拶以上の礼を尽くす必要はない。むしろ文学賞の選考委員をなさっている先達に対して慇懃(いんぎん)に腰を屈めれば、かえって品性を疑われる。

つまり、上下関係というものが存在しないわが業界において、「説教」はすべて「大きなお世話」なのである。

しかし私の場合、お里がお里であるから、内心は「レクチャー」ではなく「説教」を聞きたい。もちろん、タレたい。

こうした欲求がいつの間にか私を、世間一般に対する説教オヤジに変えてしまったのであった。

競馬場のパドックでは、花形ジョッキーのおっかけギャルどもに、「やい、ユタカが走るんじゃあねえんだぞ。馬が走るんだ。そもそも競馬てえのはだな……」、などと説教をタレてしまう。大きなお世話である。

風呂屋では勝手に水をうめる若者に、「おう、いいか風呂てえのはな、うなるぐれえの熱い湯にへえって……」──これもまた、大きなお世話であろう。

先日、イスラム系とおぼしき外国人数名が商店街を横一列に並んで歩いていたので、「コラ、道を歩くときはだな、他人のじゃまにならねえように……」、と言ったら、たちまちわけのわからぬ言葉で反論された。たぶん「大きなお世話だ」と言い返したのであろう。

それが大きなお世話であることは、言う本人がよくわかっているのである。わかっていながらもつい言ってしまうという、このオヤジ感覚は悲しい。

それでも娘に矛先を向けることのできるうちはまだ良かったのだが、年齢とともに「はい」が「はいはい」となり、「はいはい、それで?」となるにつけ、家庭における説教もむなしいものとなった。ちかごろでは気のせいか、犬もこれに倣(なら)う。

大きなお世話が社会を作る

ところで本日、久方ぶりに新宿に行った。新宿という町は悪い思い出が多すぎるので、日ごろはあまり行かない。しかし聞くところによると、紀伊國屋書店に私の『蒼穹の昴』が山のごとく平積みになっておるというので、矢も楯もたまらずに出かけた。

絶対にウソだと思ったが本当であった。いつもならヒッソリと棚に収まっているはずのわが著書が、あちこちに堆(うずたか)く積み上げられているのであった。さすがは天下の紀伊國屋書店であると私は感動し、てめえの著書を買い、店員に握手を求めて気味悪がられた。

階下のピロティーに下りてさらなる感動をした。何と大通りに面した柱巻きのワゴンに、『蒼穹の昴』が8冊分も、まこと山のごとく積み上げられているではないか。

快挙であった。興奮した私は柱の蔭に佇(たたず)み、購入した男には握手をし、女は抱きしめて接吻をしてやろうと思った。そうしてジッと待った。

しかし、20分間も待ったにも拘(かかわ)らず、私の本を買う者はいない。ただひとり、旧関東軍将校か満鉄関係者とおぼしき老人が手に取ったが、ペラペラとページを繰ったなり、うんざりとした感じで投げ置いてしまった。飛び蹴りをくれてやろうかと思ったが、きっと問題になるのでやめた。

私は苛立(いらだ)った。てめえでまた買うのもむなしいし、万がいち正体がバレでもしたらもっとむなしい。そうしてさらに待つうちに私の苛立ちは極限に達した。

何がイライラするといったって、待ち合せをしている周囲の人々が、みな携帯電話を使っている。間断ない呼音と独り言に、私は顔をしかめた。

で、すぐ隣で長話をしている若いビジネスマンに説教をタレた。場所がら、つとめて標準語を使用した。

「キミ。そこに公衆電話があるのに、ナゼ使わないのかね。通話料が高かろう」

男は当然「大きなお世話だ」、という顔をした。しかしけっこう如才ない奴で、すぐに営業スマイルを取り戻し、こう答えた。

「経費のうちですから、べつにかまわないでしょう」

言い返された私は俄然アタマに来た。

「経費といっても、金は金だろう。経営者の身にもなってみたまえ。そもそもだな、電話というものは営業の補助手段であって、どうしても会うことのできぬ取引先に、電話で恐縮ですと言いながら使うものだ。それを、さっきから聞いていれば、キミは当然のことのように何もかも電話で済ましているじゃないか。そんなことではまとまる話もまとまらん。いや、タダの怠慢だ。この横着者」

みなまで聞かずに男は立ち去ってしまった。やっぱり大きなお世話だったかな、と多少反省もしたが、どう考えても私の説教は正しい。こんなことではすべての信頼がいずれ死語となり、実業という言葉すらもやがては死んでしまうであろうと思いつつ、私は店先を後にした。

みちみちさらに苛立ちはつのった。なぜ若者たちはみな、歩きながら電話をするのだ。娘どもはなぜ歩きながらタバコを喫っておるのだ。ひとりひとりとっつかまえて説教をタレようと思ったが、余りの数の多さに私は怯(ひる)んだ。

しかし帰り途(みち)の京王電鉄の車内で、私の怒りは再び爆発したのである。

隣の席に座っていた若いOLが、やおらリュックサックを開いたとみるまに、むしゃむしゃと物を食い始めたのである。それもチョコレートならまだ許せる。混雑した車内で臆面もなく、菓子パンを食らい、牛乳を飲み始めたのであった。近ごろタバコの喫い歩きとともに、この手の娘が多い。

いったんは持ち前のインテリジェンスでこらえた。だが、アンパンの次に取り出したのがソースのこってりとかかったコロッケパンであったので、私はついに堪忍袋の緒を切った。ここで説教をせずんば、説教すらも死語となると考えた結果である。

「キミは、そんなにおなかがすいているのかね」

ここでもまた、OLは「大きなお世話だ」という顔をした。

「みっともないことだとは思わんのかね。若い娘が、公衆の面前で物を食うとは何ごとか。食うことが悪いとは言わん。時と場所とをわきまえなさい」

いったいどういう世界観を持っているのであろう。その娘はしごく上品な口ぶりでこう答えたのであった。

「よろしかったら、おひとつどうぞ」

たしかに人にはそれぞれの生き方があり、営みがある。法に触れさえしなければ何をしてもいい自由社会の中で、私はたぶんタダの説教ジジイであろう。だが少くとも私は、かつて見知らぬオヤジどもから説教をされ、社会人としての良識を培(つちか)ってきた。自由と流行の名の許に説教を怠るのは、父の教えを子に伝えぬわれらが世代の怠慢であろうと考えるのだが、どうだろう。

誰に何と言われようが私は説教を続ける。大きなお世話が社会を作る、と信ずるがゆえである。

(初出/週刊現代1996年6月1日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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