浅田次郎の名エッセイ

29年前、オウム真理教による凶悪事件に触れて、浅田次郎が感じた「うちなるオウム」の存在

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第95回は、「良識について」。

われらの内なるオウムの存在

オウムによる坂本弁護士一家殺害事件は、思い出すだにおぞましく、憤満やるかたない。

オウムの存在とその出現をめぐって、われわれが今、一番考えねばならない問題とは何であろう。少くともそれは、醢(しおから)をくつがえして歎(なげ)くことではなく、髪を逆立てて怒ることではあるまい。

まことに信じ難い事件ではあるが、オウムが出現し、しかも犯罪を犯しながらかくも長きにわたって彼らが社会に存在したのは厳然たる事実であるのだから、われわれはその出現と存在の理由について、合理的に科学的に究明していかねばならぬと思う。

すなわち、歎くよりも怒るよりもまず、われらの内なるオウムの存在に気付かねばなるまい。

彼らの所業は悪魔のそれであるが、肉体の構造も生育環境も、さほどわれわれと異っているわけではない。したがってわれわれの心の中にも生活のうちにも、必ずオウムは潜んでいると思うのである。

──などと、宗教家のような考えをめぐらしながら、先ほど銭湯に行った。

湯舟も洗場もサウナ・ルームも、歎きと怒りに充ち満ちていた。

かくいう私も、若い時分は血も涙もねえ野郎だと言われたのであるが、年齢とともにすっかりヤキが回ってしまい、噂話の中に龍彦ちゃんの笑顔を思いうかべては汗にまぎれて涙した。

と、おっさんたちが汗と涙にくれるサウナ・ルームに、突如として極めて行儀の悪い少年が二人、闖入(ちんにゅう)してきた。

小学校高学年とおぼしき2人の少年は、いったい何を食い、どうやって遊んでいるのかは知らんが、ともに豚のごとく肥えていた。

以下、豚少年の会話。

「おまえんち、親は心配しないのかよ」

「フロヤなら心配しねえよ。ゲーセンとかコンビニだと怒るけど、ダイエットだもんな」

「塾の帰りにサウナっての、いいよな。怒られないし、ダイエットできるし、たった700円だぜ」

「よおし、1キロ落とすぞォ」

少年たちの置かれている状況はだいたいわかった。不愉快ではあるが、不自然ではない。周囲の大人たちも、まあそのあたりは理解したようで、しきりに苦笑していた。

ところが、少年たちはやがて我慢のならぬ行動を始めた。ひんぱんにサウナ・ルームの出入をくり返す。そのつど水風呂に飛びこみ、ビショビショの体でまた入ってくる。いかに豚少年とはいえ、子供の肉体がサウナに適さぬことは自明であるから、当然そのような入り方になるのであろうが、問題はマナーである。

塾の帰りに銭湯に寄るのも、風呂銭を「たった700円」と認識するのも、それは個人と家庭の見識であるのだからとやかくは言えない。しかし公共の場におけるマナーを知らず、また親が教えないということはけしからん。実にけしからん。

バスタオルを巻いて湯船に入る少年たち

ところで、全く意外であったのは、周囲の居並ぶジジイどもが少年たちの無礼をいっこうにとがめようとはしないことである。

私は公共の場での作法にはやかましい下町育ちなので、思わず昔おのれがそうされたように少年の頭を張り倒そうとしたが、多少のビジター意識からグッとこらえた。やがて少年たちはサウナに飽き、湯舟で遊び始めた。

以下、サウナ・ルームにおけるジジイどもの会話。

「まったく、今の子はかわいそうだねえ。何の楽しみもなくって」

「勉強勉強で、フロに来てストレス解消してるんでしょうな」

「そう考えれば、私ら食う物食わずに育ったけど、あんまりやかましいことも言われなかったし、楽しかったですな」

と、ジジイの1人は賛意を求めるように、私に向かって微笑した。おそらく、オウム談議の続きで、私が「いやあ、まったくですなあ」、とか言うとでも思ったのであろう。

そこで私は切れた。私はリベラリストではあるが、銭湯の平和のために社会秩序を見失うような安っぽいリベラリズムは持ち合わせていない。

「ケッ、ばっかくせえ!」

と、突然お里まるだしのオヤジに豹変してサウナ・ルームを出た。

いかんいかん、せっかく標準語をマスターし、言文一致の生活をうちたてたのだから、非文化的な言動は慎まなくては、と切れた回線を修復しようとしたのもつかの間、湯舟で遊ぶ少年たちの無法ぶりを目撃したとたん、私は再び切れた。

あろうことか豚少年どもは、バスタオルを腰に巻いたまま湯舟に沈んでいたのである。しかも蛇口からはジャージャーと水を流しっぱなしにしているではないか。

とりあえず二つの頭を張り倒し、水を止めた。同時に日ごろから心がけている言文一致の自戒は、ガラガラと音立てて崩れ去った。

「おい坊主。てめえんちのフロじゃねえんだ。勝手にうめるな」

少年たちがわけもわからずに呆然としたのは、日ごろ頭を張り倒されたことがなく、あまり叱られたこともないせいであろう。

「それとな、湯舟の中にタオルを入れるんじゃねえ。ましてやバスタオルたァ、どういう了簡だ」

ふいに見知らぬオヤジに叱られても、少年たちがとっさに行いを改めようとしないのは、湯舟にタオルを入れてはならないという常識を知らないからであろう。

「おめえらんちは何かい、湯舟にタオルを入れてもかまわねえのかい」

すると少年たちは首を横に振った。つまりそのぐらいの躾けはされているのである。ならばどうして銭湯では違う行動をとるのか。

少年の一人が口にした言葉は、少なからず私を愕(おどろ)かせた。

「だって、テレビではこうやって入ってるから」

なるほどテレビの旅グルメ番組で、レポーターたちはみなそうやって湯舟に浸っている。

ハハア、と私は了簡した。要するに私らのころの長屋のガキとはちがい、少年たちは立派なユニットバスを備えた家から、わざわざ銭湯に来ているのである。

彼らにとっての銭湯とは、自宅のフロとは全く異質の代物(しろもの)であり、フロというよりテレビで見る温泉に近い存在なのであろう。そして──彼らにとって、テレビの映像は「良識」であり、「正義」なのである。

そう考えついたとたん、私の回路はたちまち復旧した。怒ったり歎いたりしている場合ではないのである。私の今なすべきことは、目の前にある厳粛な事実を、おのれの内なるものとして冷静に受け止めねばならない。

「あのねえ、君たち。テレビに映るものが何でも正しいわけじゃないんだよ。レポーターの人のちんちんなんて見せちゃいけないから、仕方なくああやってタオルを腰に巻いているだけで、ほんとうはいけないことなんだ。わかるかね」

「ウソだァ。だったらモザイクかけりゃいいじゃないか」

すべてを納得させることは不可能であった。なぜなら彼らは彼らの生活の中であらかじめ規定された良識が、すでにあるからである。

塾通いの必然性、テレビに対する信仰、豚のごとく肥えてしまった体、そして大人たちの沈黙。かくて少年たちは連れ立って夜更けの銭湯を訪れ、バスタオルを巻いたまま湯舟に入ってしまったのである。

豚少年たちは結局、私の言うことは理解できぬまま帰って行った。

もちろん不俱戴天(ふぐたいてん)のオウムを弁護するつもりはない。ただ、案外われわれの身近に、オウムを生み出した土壌があるのではないかと思うのである。

だとすると、われわれはみな、すでに生活の中において善と悪との正当な認識力を欠いており、ただひとりそれを正確に知っていた弁護士が、命を落としたことになりはすまいか。ただひとりそれを正確に教えた聡明な母親が、万斛(ばんこく)の涙を流したことになりはすまいか。

(初出/週刊現代1995年10月14日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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