羽柴秀吉から「奥羽惣無事令」 天正10(1582)年、本能寺の変の年。晴政が死ぬと実子の晴継が第25代の当主になりましたが、すぐに暗殺されてしまいます。信直にも疑いの目が向き、第26代の当主を巡って九戸当主の九戸政実の弟…
画像ギャラリー『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
800年続く名門
奥州の雄、南部家は名門です。先祖をたどると、平安時代後期の前九年の役、後三年の役で勝利を挙げた新羅三郎義光(源義光)にたどり着きます。「清和源氏」といいますが、義光から7代さかのぼると、清和天皇になるわけです。三郎義光の兄が八幡太郎義家で、この家系から源頼朝や足利尊氏が出てきます。いっぽう義光は甲斐守となり、一族は山梨に根付きました。
義光の4代後が、盛岡南部氏を興した南部光行です。彼は現在の山梨県南部町周辺を治めていましたが、奥州藤原氏を攻めた時の手柄として、頼朝から糠部郡(ぬかのぶぐん)、現在でいうところの青森県の東部と岩手県東部を与えられ、これが盛岡南部氏の始まりとされます。それから第46代となる現在の当主まで、800年以上続いているのですから、実に名家です。
北は下北半島から南は北上川中央部まで
南部光行の子どもたちから、一戸氏、三戸氏、四戸氏、七戸氏、八戸氏、九戸氏と枝分かれして、勢力を拡大していきました。戦国時代を迎える頃には、三戸を治める三戸氏が南部氏最大の勢力で、本家という存在でした。そして第24代の南部晴政の頃には、北は下北半島から南は北上川中央部まで勢力を広げ、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどになりました。
晴政には息子がおらず、従兄弟の信直を娘の婿に迎えます。ところが、その後晴継という息子が生まれたために信直は疎まれ、一族は晴政の勢力と信直の勢力で対立することになりました。南部領の北ではその間隙を突くように、一族の大浦為信(後の津軽為信)が挙兵し、信直の父である石川高信を自害に追い込みます。ごたごたして結束できない南部氏は大浦為信を抑えられず、後に津軽の独立を許す結果となります。その間も晴政と信直の険悪な関係は続き、信直は養嗣子の座を辞退して隠棲するにいたりました。
羽柴秀吉から「奥羽惣無事令」
天正10(1582)年、本能寺の変の年。晴政が死ぬと実子の晴継が第25代の当主になりましたが、すぐに暗殺されてしまいます。信直にも疑いの目が向き、第26代の当主を巡って九戸当主の九戸政実の弟、実親との争いになりますが、信直が支持を多く集め、第26代当主の座を勝ち得ました。
その後羽柴秀吉から「奥羽惣無事令」が出されると、いち早く豊臣政権に臣従する姿勢を見せました。このあたりは、時代の流れを見る目があったということでしょう。これが後々南部家と信直を助けます。
南部氏に訪れた最大の危機
南部氏に最大の危機が訪れるのは、天正19(1591)年、九戸政実(くのへまさざね)の乱です。南部信直が天正18(1590)年に小田原征伐と、続く大崎氏や葛西氏らを滅ぼした奥州仕置に従軍していた隙に、九戸政実は三戸南部側の南盛義を討つなどして、反三戸南部氏ののろしをあげたのです。九戸政実は弟の九戸晴政が当主になれなかったことに遺恨を持っていました。また、秀吉によって三戸南部家が宗主とされ、一族は従うことを求められたことにも反発したのです。
九戸政実は5000の兵で挙兵、これに呼応して一揆が発生し、三戸南部氏側は大ピンチに陥ります。これに対して、秀吉は奥州再仕置きを命じます。甥の豊臣秀次を総大将に、徳川家康も加わった6万の大軍を差し向けました。九戸政実は九戸城に立てこもりますが多勢に無勢で、開城すれば全員助命するという豊臣側の申し出を信じ降伏。しかしその約束は反故となり、女を含め城内の者たちは皆殺しにされたといわれています。
これで南部信直はひとまず安泰となりましたが、父を自害に追い込み、津軽の地を奪った大浦為信への恨みは消えません。秀吉に仇討の許可を訴えました。
しかし、すでに仕置きは済んだとして、秀吉はこれを拒否。代わりの領地を与えられました。結局、南部の地であった津軽は大浦為信の政治工作が功を奏して、津軽氏としての独立が認められたのです。津軽氏が開いたのが弘前藩。居城は桜で有名な弘前城です。
“犬猿の仲”の南部藩と津軽藩
南部藩と津軽藩は、江戸時代を通して犬猿の仲で、津軽氏の参勤交代は南部領を通らなかったとか。戊辰戦争でも、南部が幕府軍、津軽が幕府軍から寝返って新政府軍につき、野辺地戦争が起こっています。
そんなこともあって、現在でも青森県西部の津軽地方と東部の南部地方は仲が悪いといわれますが、津軽弁と南部弁が違うように、文化も違うことは確かです。
【盛岡城】(別名・不来方城、こずかたじょう)
慶長2(1597)年、南部信直が嫡子利直に命じて築城開始。縄張りは豊臣政権の五奉行筆頭だった浅野長政の助言があったと伝えられ、守りやすい北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵を選んでいる。何度か洪水に見舞われながらも寛永10(1633)年に完成。以来明治の廃藩置県まで南部氏の居城となった。明治7(1874)年に破却され、建物に面影となるものはないが、大きな花崗岩を使った石垣は美しく、会津若松城、白河小峰城とともに東北の石垣三名城に数えられている。不来方城は盛岡城以前にあった城の名前。現在、盛岡市では建物の復元を目指している。
住所:岩手県盛岡市内丸1-37
■彦御蔵(ひこおくら)
盛岡城の遺構で江戸時代から残る唯一のもの。木造の2階建てで外壁は漆喰塗りで床面積は約360平方メートル。
■石川啄木歌碑
「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」は啄木が学校を逃げ出し、読書にふけった心境を読んだもので、盛岡城跡公園二ノ丸にある。書は友人だった言語学者でアイヌ語研究で知られる金田一京助のもの。
【南部信直】
なんぶ・のぶなお。1546~1599年。清和源氏武田氏の流れを汲む南部氏の第26代当主。南部氏は、源頼朝から現在の山梨県南部町に所領を与えられた南部三郎光行から興る。中興の祖といわれる信直だが、後継者を巡って争いが絶えず、家督を継いだ後も一族の九戸政実の乱や大浦為信(後の津軽為信)の津軽切り取りなどがあり、不安定だったが豊臣秀吉に近づくことで不満分子を抑え安定化を図った。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」