日本唯一のサブテンランナー 二つ目は、その顔ぶれ。三つ巴の争いを繰り広げた瀬古、宗兄弟といえば、のちに日本マラソンの“ビッグスリー”といわれることになる、陸上界のレジェンド。野球でいえば王、長嶋、プロレスでいえば馬場、猪…
画像ギャラリー2024年8月に行われるパリ五輪男子マラソンの代表の残り一枠を決める「MGCファイナルチャレンジ」(2月25日・大阪マラソン2024、3月3日・東京マラソン2024)が間近に迫っている。これまでも4年に1度のひのき舞台への出場権をかけて、数々のドラマを生んできた代表選考レース。なかでも史上最高の名勝負として語り継がれているのが、45年前にモスクワ五輪代表の座をかけて競われた、1979(昭和54)年12月2日の第33回福岡国際マラソンだ。日本マラソンのビッグスリー、瀬古利彦と宗兄弟がゴール目前までつばぜり合いを演じた伝説の「死闘」を振り返る。
残り200mからの猛スパート、5秒差で3人がなだれを打ってゴール
残り1kmを過ぎても勝負の行方は分からない。まるで400mレースが始まったかのように、平和台陸上競技場(福岡市)のゲートに宗茂、宗猛、瀬古利彦の3選手が肩を並べるように飛び込んでくる。この瞬間に、瀬古は勝利を確信していたという。
「このメンバーならゴールに近いところで勝負が決まると予想していた。宗さん兄弟のすぐあとから競技場に入ってきた時、シメタと思った。最後のスピードならボクの方が強いから」(読売新聞1979年12月3日朝刊)。
第2コーナーを回りバックストレートまでくると、勝負どころと読んだ瀬古がギアを上げる。残り200m、トラックで鍛えた脚力で宗兄弟をグングン突き放し2時間10分35秒でゴール。2秒後に宗茂、さらに3秒後に宗猛が続く。5秒差で3人がなだれを打ってゴールする、まさに「死闘」となった。モスクワ五輪の代表選考会を兼ねた1979年の第33回福岡国際マラソンのゴールシーンである。
事実上の世界一を決めるレース
45年を経た今でも、オールドファンの間で語り草となっている「福岡の死闘」。その理由はいくつかある。まず一つ目は、稀にみる僅差の勝負であったということ。長い福岡国際マラソンの歴史の中で、5秒差以内で勝負が決まることはたびたびあったが、いずれもマッチレース。トラックで3選手が最後まで競り合ったのは、このレースだけだ。
当時の福岡国際マラソンは、国際陸連が公認する唯一のマラソン選手権大会で、事実上、そのシーズンの世界一を決めるレースとされていた。そのような大舞台で海外の強豪を破り、日本選手が僅差の勝負で1~3位を独占したというインパクトは大きかった。
日本唯一のサブテンランナー
二つ目は、その顔ぶれ。三つ巴の争いを繰り広げた瀬古、宗兄弟といえば、のちに日本マラソンの“ビッグスリー”といわれることになる、陸上界のレジェンド。野球でいえば王、長嶋、プロレスでいえば馬場、猪木のような伝説的な存在だ。
レースの時点でも、マラソンの持ちタイムは宗茂2時間9分05秒、瀬古2時間10分12秒、宗猛2時間12分48秒で、それぞれ日本歴代1、2、8位。宗茂は当時、世界で5人、日本では唯一のサブテンランナー(2時間10分以内で走った記録を持つ選手)であり、瀬古のタイムも世界歴代10傑(9位)に入っていた。
「専門家によるまでもなく、一般の人の“人気投票”でも、この三人がモスクワ代表になるのが理想の姿」(読売新聞1979年12月3日朝刊)と書いた新聞記事もあったほどで、期待通りの3選手が予想を上回る走りを見せてくれたという感激が、このレースをより印象深くしたということはあるだろう。
ちなみに3選手の直接対決は7回あり、瀬古が優勝5回を含む6戦で先着し、宗兄弟が先着したのは宗猛が4位になったロサンゼルス五輪だけだった。3人全員が3位以内に入ったのは79年の福岡国際マラソンしかない。ただ一度の“ビッグスリー”三つ巴の争いという意味でも貴重なレースだった。
モスクワ五輪ボイコットで五輪代表が「幻」に
さらにこの名勝負の印象をより強くするのは、五輪代表の座が幻になってしまったことだ。レースから22日後、ソ連がアフガニスタンに侵攻。アメリカの呼びかけに応じ、日本はモスクワ五輪をボイコット。3選手がモスクワのスタートラインに立つことはなかった。のちに瀬古と宗茂は、幻になったモスクワ五輪について次のように語っている。
茂:メダルを獲れたかどうかはわかりませんが、もしモスクワ五輪に出場していたら、ロス五輪の結果は違っていたでしょう。ロスでは3人が3人とも暑い中で練習をやり過ぎて、疲労困憊の状態でレースをした結果、失敗しました(猛が4位、瀬古が14位、茂が17位)。モスクワを経験していれば、あんな失敗はしなかった。それだけは自信を持って言えます。
瀬古:マラソンを自由自在に走れた時期でしたし、’79年のあのレースで苦しい思いをしたので、もしモスクワに出場できたらたぶん絶好調だったと思います。出場できなかったことで、歯車が狂ってしまいました。
茂:当時の瀬古さんは、「瀬古が勝たないで誰が勝つんだ」というぐらい強かった。でも、結局、オリンピックの女神は降りてきませんでしたね。
瀬古:最大のライバルであり、目標だった宗さんたちがいたから自分がある。いま振り返って、そう思います。お二人には本当に感謝しています。
(『週刊現代』2019年8月24・31日号 マラソンの名勝負「1979年の瀬古vs宗兄弟」デッドヒートを語る)
史上最強のビッグスリーが出場していたら…
瀬古23歳、宗兄弟26歳、史上最強といわれた代表トリオでモスクワ五輪に出場していたら、と誰もが夢想することだろう。モスクワ五輪のボイコットにより「福岡の死闘」は、今も語り継がれる「伝説」になったといっても言い過ぎではない。
2月25日には大阪、3月3日には東京で、パリ五輪男子マラソン代表の、残り一枠を決めるMGCファイナルチャレンジが行われる。世界との差は開くばかりの日本マラソン界だが、海外の招待選手を蹴散らし、日本選手が表彰台を独占する、あの日の福岡のような痛快なレースを見たいものだ。
石川哲也(いしかわ・てつや)
1977年、神奈川県横須賀市出身。野球を中心にスポーツの歴史や記録に関する取材、執筆をライフワークとする「文化系」スポーツライター。
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