バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第104回は、「禽獣について」。
親に捨てられた私は愛猫「ミーコ」を捨てた
9歳のとき家業が没落して、一家離散の憂き目に遭った。
物心ついてからそれまでの暮しが豪奢をきわめていたので、突然の没落に何が何やらさっぱりわからぬまま、私とすぐ上の兄は遠縁の家に引き取られたのであった。
自家用車などというものは全くない時代に、私は運転手つきのダッジに乗り、お付き女中にランドセルを持たせて私立の小学校に通っていた。そんな生活がある日突然ご破算になり、父母は失踪し、使用人たちもどこかに消えてしまい、子供らだけがぼんやりと数日間を過ごしていたところに、さほど親しくはなかった親類が救出に来てくれたのであった。
とりあえず身の回りの物だけを持って引き取られることになったのだが、子供の手に持てる物といえば勉強道具と着替えが精いっぱいであった。それまでの生活が生活であったから、捨てなければならない物が多すぎた。
どうしても捨てたくない物が2つあった。
ひとつは母が買ってくれたヴァイオリンで、それは失踪した母に対する思慕というより、純然たるヴァイオリンへの愛着のために、捨てたくはなかった。
いまだにクラシック・コンサートに足繁く通い、ことにヴァイオリン・コンツェルトを好んで聴くのは、こうした幼児体験によるのかもしれない。もしかしたら小説を書くことは、満たされなかった夢の代償行為なのであろうかと思うこともある。
もちろん、ヴァイオリンは捨てた。
もうひとつの捨てがたかった物とは、猫であった。
これは「ミーコ」という雑種の赤猫で、たいそう私になついていた。名を呼べばどこからでも飛んで来て、毎晩私と一緒に寝た。だがふしぎなことに、私が家を去るその日に限って、呼べど叫べど姿を現さないのであった。猫はたいへん勘の鋭い動物であるから、おそらく家に起こった変事を察したのであろう。
百数える間に出てこなかったら諦めろと兄が言うので、私は家の回りをぐるぐる歩きながら、なるべくゆっくりと百を勘定した。
ミーコは帰ってこなかった。私は私の茶碗に飯をてんこ盛りし、あるったけの鰹節をかいて裏庭に置いてきた。
考えてみれば、私が猫を捨てるはめになったのは、私が親に捨てられた結果なのだけれど、だからこそ猫を捨てることには気がとがめた。罪悪感とか良心の所在とかいうものを私が意識したのは、たぶんそのときが初めてであろう。
どんな事情があろうとも、愛し愛された猫を捨てることは許されざる罪悪だと感じた。ふしぎなことに、このときの罪悪感だけは今も拭えない。
没落した家の裏庭にあかあかと沈む夕日と、てんこ盛りの飯茶碗。この風景は明らかに小説家としての私の、原風景であろう。
ところで、私は現在5匹の猫と1匹の犬を飼っている。いや、飼っているという言葉はまったくそぐわない。ともに暮らしている。
長じて環境が許すようになってからは、禽獣を手放したことがない。数年前には犬猫合計13匹、その他に雀、蛇、モグラ、コウモリ、という状況もあって、さすがにそのころは自分が人間であるという自覚さえなかった。
当然のことながら家の中は猖獗(しょうけつ)をきわめており、餌代は人間のそれを遥かに上回り、巨額の医者代を確定申告して税務署から大目玉をくらったという苦い経験もある。
しかし悲しいことに、禽獣もあまり頭数が多すぎると自然淘汰してしまう。生れた子供はほとんど育たず、また仲間たちとの折が合わずに出奔してしまうものも跡を絶たない。で、現在の犬1匹猫5匹の勢力に少数安定したのであるが、どうやらこの定数は人間にとっても彼らにとってもきわめて平和な状況であるらしい。
死なれることは何より辛いから、当分はこの勢力を堅持しようと考えている。
かつて同居した禽獣の数は、のべ100匹を下らないであろう。だとすると、私はミーコを始めとして90余匹の禽獣たちと、死に別れ生き別れてきたことになる。意識してはいなかったが、これもまた小説家としての私の、原体験となっているのかもしれない。
いつも原稿を読んで励ましてくれた「民子」
もう1匹、どうしても忘れがたい猫がいる。数年前に同居した雉子虎(きじとら)の牝で、名前を「斎藤民子」という。変な名前だが、犬猫はまさか私と血縁があるわけではないので、わが家の風習としてしばしばこういう命名をする。
民子はもともと野良猫で、庭の餌場に通っているうちに書斎に住みついた。たいへん聡明な猫で、人語をよく解し、またわかりやすい猫語を話した。たぶん野良猫というより、生家が没落したか何かで、巷(ちまた)をさまよっていたのであろう。悪いから詳しい事情はきかなかった。
民子のまことに聡明であった点は、私の仕事をよく理解していたことである。私は物語がうまくはかどらないと猫に当たる悪い癖があるので、いざ机に向かうと誰も寄りつかない。
しかし民子は、苦悶する私のかたわらにいつもいてくれた。むしろ原稿を書き出すと、どこからともなく近づいてきて、必ず手の届くところに座るのである。私は書き上がった原稿を文机(ふづくえ)の左に重ねて行く。すると彼女は、興味深くそれを読むのである。決して出来ばえに文句はつけない。「どうだ?」と訊くときまって、「いいわよ」とか「良く書けてる、その調子」とか答えてくれる。他の猫たちがよくそうして殴られるように、原稿用紙の上に乗ることも、またぐことも、飛びこえることもなかった。
そんな民子が失踪したのは、寒い冬の日のことであった。彼女が当時、家中を仕切っていた隻眼(せきがん)の巨猫「小笠原チョロ」に憎まれていることは、うすうす気付いていた。小笠原にはたびたび説諭したのであるが、彼は捨て猫という出自の卑しさもあって、私の言うことを余りきかない。私をさしおいて、家長は俺だという許しがたい傲慢さも持っていた。
小笠原にいじめ抜かれて、彼女は家を出たのだと思う。民子の身を案じて私は、朝に晩に愛犬「平岡パンチ」と肩乗り猫「稲田ミルク」を連れて捜索に出かけた。
しかし私たちの努力もむなしく、斎藤民子の行方は杳(よう)として知れなかった。美しく聡明な民子のことであるから、きっとどこかの家に飼われているにちがいないと、そう思うことにした。平岡も稲田も私のこの見解は正しいと言うので、朝晩の捜索は打ち切った。
忘れもしない、クリスマスの夜のことである。その晩、平岡はクリスマスケーキを食いすぎて吐き、稲田はシャンペンで悪酔いをし、小笠原はこともあろうに泥酔した稲田を犯した。杯盤狼藉(はんばんろうぜき)の限りをつくして人も犬猫もそこいらにブッ倒れて寝静まった夜更け、民子がひょっこりと帰って来たのである。
そのとき私は、長編小説の仕上げにかかっていた。か細い鳴声に振り返ると、見るかげもなく痩せ衰えた民子が、書斎の戸口に座っているのであった。半月ぶりの帰宅であった。
何か食わそうと思っても口にしない。夜更けのこととて獣医に見せるわけにもいかず、仕方なく毛布にくるんで膝に抱いた。民子は大団円の10枚ばかりを、膝に横たわったまま読んだ。
世の明け染めるころ、私は稿を脱けた。すると民子は膝を抜け出して原稿の束を見下し、とてもいい声でにゃあにゃあと鳴いた。あいにく、その猫語を私は解さなかった。
飢えているのではなく、悪い病にかかっているにちがいなかった。美しい雉子毛は身づくろいもできぬままに凝り固まっており、歩くたびに腰が落ちる感じでよろめいた。長年の勘で、私はもうだめだなと思った。
それでも民子は、私をじっと見つめ、声をふりしぼってにゃあにゃあと泣いた。鳴いたのではなく、泣いていた。
そしてよろめきながら、どこかへ行ってしまった。彼女が何のために帰宅し、懸命に何を言ったのか、わかったのは後のことだ。
700余枚の原稿が上梓されたとき、どうしてこんなに人間の言葉が書けるのに、あのときの民子の声を理解できなかったのだろうと、私は悔いた。
(初出/週刊現代1995年10月7日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。