松平定知の「一城一話55の物語」

お市の方との悲劇の舞台「小谷城」 浅井長政は愛妻を逃し籠城した

小谷城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

家督を継ぐと、信長が同盟を… 永禄3(1560)年、浅井長政が家督を継ぐと、尾張の織田信長が同盟を持ちかけました。当時信長は美濃の斎藤氏との戦いに明け暮れており、その戦いは膠着状態にありました。そこで目を付けたのが、美濃…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

京極氏の譜代家臣

小谷城は天守も城郭もありませんが、戦国大名として知られる浅井長政(あざいながまさ)の居城であり、お市の方との悲劇の舞台として知られます。

もともと浅井氏は北近江を治める京極氏の譜代家臣でしたが、京極氏のお家騒動に乗じて戦国大名に成り上がっていったと考えられています。

小谷城跡から眺める Photo by Adobe Stock

浅井亮政が築城

小谷城を築城したのは浅井長政の祖父・浅井亮政(あざいすけまさ)です。城ができたのは大永3(1523)年頃と考えられています。毛利元就が家督を継いだのが同じ1523年ですから、戦国のかなり初期です。

北近江で勢力を拡大する浅井亮政に対抗し、圧迫したのが近江の守護大名だった六角定頼です。当時の近江は美濃や尾張とともに最も争いが激しいところでした。六角氏に対抗すべく浅井亮政のとった政策が、越前の朝倉氏との同盟でした。

「野良田の戦い」で撃破

浅井氏の勢力も亮政の嫡男、久政の代になると、武勇に優れないこともあって衰えます。一時は六角氏の攻勢に押され、隷属させられてしまいます。この久政の弱腰に業を煮やして戦いを挑んだのが、子の長政です。

永禄3(1560)年、浅井久政・長政軍1万1000が、六角義賢(ろっかくよしかた)軍2万5000と、現在の彦根市野良田(のらだ)で激突。世に言う野良田の戦いが起こります。はじめは圧倒的に数で有利な六角氏が押し込みますが、勇猛な長政の活躍で六角氏を撃破。浅井氏は六角氏からの独立を勝ち取ります。これで名門六角氏は衰えていきます。

小谷城跡の登り口 Photo by Adobe Stock

家督を継ぐと、信長が同盟を…

永禄3(1560)年、浅井長政が家督を継ぐと、尾張の織田信長が同盟を持ちかけました。当時信長は美濃の斎藤氏との戦いに明け暮れており、その戦いは膠着状態にありました。そこで目を付けたのが、美濃の隣、近江の浅井氏だったのです。織田と浅井で斎藤氏を挟み撃ちにしようというものでした。

ここで登場するのが戦国時代の悲劇のヒロイン、信長の妹である市です。永禄10(1567)年に彼女は浅井長政のもとへ嫁ぎます。織田信長の一代記である『信長公記(しんちょうこうき)』によれば、お市の方は1547年生まれですので、21歳という当時としては遅い結婚です。いっぽうの長政は六角氏の家臣、平井氏の娘と結婚していましたが、六角氏との争いの際に離縁しており、お市の方とは再婚となります。

三姉妹が誕生

お市の方は美貌の持ち主と知られており二人の仲も睦まじいものだったと伝えられ、生まれたのが長女茶々、二女初、三女江の三姉妹です。

茶々は秀吉の側室となり、初は若狭小浜藩の京極高次に嫁ぎ、江は徳川二代将軍になる秀忠の正室となります。江は秀忠に嫁ぐ前に秀吉の甥・羽柴秀勝に嫁いでおり、完子(さだこ)という娘をもうけています。完子は叔母である淀殿のバックアップもあって、摂関家である九条家に嫁ぎます。

小谷城跡から大嶽城跡への道 Photo by Adobe Stock

信長の数少ない負け戦

話がそれましたが、永禄11(1568)年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を将軍とします。信長は将軍義昭を名目とし、各地の大名に上洛を促しますが、越前の朝倉義景はこれを拒否。これに怒った信長は同盟関係だった徳川軍とともに3万の兵を率い、元亀元(1570)年、越前討伐に向かいます。

この時朝倉との同盟を重んじた浅井長政は信長を裏切り、背後から襲いかかります。さらに朝倉との挟撃で織田、徳川連合軍を追い詰めます。これが信長の数少ない負け戦として知られる、金ヶ崎の戦いです。

浅井・朝倉軍の敗戦

この時の逸話として、お市が両端の紐を結んだ袋に小豆を入れ、信長に送り包囲の危機を知らせたというものがあります。そういう話が出てくるくらい絶体絶命だったのです。

信長は、殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉の活躍もあって、命からがら越前敦賀から朽木を越えて京に逃げ延びると、2か月後には兵を立て直して近江に迫ります。浅井長政軍8000は朝倉義景軍5千とともに姉川に布陣し、織田軍1万、徳川軍3000が激突。激しい戦闘になり、小谷城は何とか持ちこたえるも、浅井・朝倉軍の敗戦でした。

小谷城から琵琶湖を望む Photo by Adobe Stock

武田軍が来ていたら…

さらに元亀3(1572)年、信長軍が近江に来襲します。朝倉軍が応援に駆けつけ、武田信玄の軍も足利義昭の「信長討つべし」の要請に応え、来援する予定でしたが、信玄の急死で武田軍は甲斐に戻ってしまいます。もしも、武田軍が来ていれば織田・徳川軍は追い詰められていたでしょう。

そして天正元(1573)年、信長軍3万は越前の朝倉義景を一乗谷に攻め、滅亡させたあと近江に進軍。小谷城を攻めたてます。浅井長政は籠城するも、自害し果てます。享年29。

「包囲」は不可能

この時小谷城は、秀吉軍にぐるりと包囲されたといわれますが、行ってみると城は崖の先端にありました。「包囲」は不可能です。聞くと見るとでは大違い、現場を見ることの大切さを教えられた城でした。

お市は最後まで長政の元を去ろうとしなかったと言われ、夫・長政に「この娘たちのために生き延びよ」と言われ、城を出ます。お市の方は、この長政の説得がなければ、歴史はまた別の展開を見せていたでしょう。

【小谷城】(おだにじょう)
小谷山(495m)の南の尾根筋に築かれた戦国時代の典型的な山城。日本五大山城のひとつに数えられる。4年にわたって織田信長に攻められ、落城。その後解体されて長浜城に移されたため、城郭としての建物は残らないが、自然の地形を巧みに利用した曲輪(くるわ)や石垣、土塁などが残っている。
住所:滋賀県長浜市湖北町伊部

小谷城跡 Photo by Adobe Stock

【浅井長政】
あざい・ながまさ。1545~1573年。北近江の戦国武将、浅井氏の3代目。織田信長の妹、市をめとり、織田氏と同盟関係を結ぶも、以前よりの同盟関係であった朝倉氏を重視し、信長を裏切る。信長軍の背後から急襲した金ヶ崎の戦いで信長を追い詰めるも、姉川の戦いで敗れ、小谷城を攻められ自害。享年29。

【お市の方】
1547~1583年。織田信長の妹に生まれ、浅井長政に嫁ぎ、茶々、初、江の3姉妹をもうける。長政自害の後は柴田勝家に嫁ぎ、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れると、一緒に自害した。福井市の西光寺に夫婦の墓がある。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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