愛の言葉を遺して去ったミルク 夏の終り、私の溺愛していたミルクが消えた。 ミルクは拾ってきたころから牛乳が好きであったので、ミルクと名付けた。脱脂綿に含ませた牛乳を、母の乳房にすがるようにしてよく飲んでくれた。そのせいで…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第114回は、「失踪について」。
幸福感は同居する猫のあたま数と比例する
私は今、いつになく悲しい気持ちでこの原稿を書いている。
目覚めればまず溜息をつき、食事の途中でいくども箸を置き、人と会えば話はうわの空で、机に向かえばついつい物語が切なくなる。
秋が来て、体調もすこぶるよろしい。快眠快便、四十肩もケロリと治り、仕事はほとんど自動筆記のごとく進捗(しんちょく)し、まさに矢でも鉄砲でも持ってこいといった毎日なのである。
しかし、心は悲しい。
悲しみの原因を口にすると、みんなはまたきっとバカにするから、週刊現代に書く。
猫が消えたのである。しかもこの一夏のうちに、3匹の愛猫が次々と失踪した。結果、わが家に残された猫はわずか3匹となってしまった。
この20年来、私の幸福感は財布の中味とはもっぱら関係なく、常に同居する猫のあたま数と比例していた。最も幸福を実感していた数年前は、13匹の犬猫と寝食を共にしていたのである。
去るものあり、死するものあり、そのうちご近所からの苦情および市役所のご指導等に屈して心ならずも避妊去勢の術を施した末、猫の数は6匹に安定していたのであった。
何とうち半数が、この夏に失踪したのである。
わが家においては猫は決してペットではなく、家族である。私はよく猫語を解し、猫は人語完全に理解している。意思が通じ合っており、しかも互いに毛がかりの猜疑心すら持たず、嫉妬もおねだりもしないのであるから、家族以上に信倚(しんい)し合っていると言っても良い。
まず梅雨のころ、愛する巨猫チョロが消えた。今を遡(さかのぼ)ること5年前、旅の野良猫が床下に置いて行った猫である。あれもたしか雨の日であった。
牛乳を持って行ってやると、母猫は2匹の仔猫を私に見せながら三ツ指ついて言うのである。これまで何とかやって来ましたが、あたしも精一杯で、このさき子供らを育てる自信がありません。どうか貰ってやって下さい。
頼まれてイヤと言えないのは、猫も原稿も同じであった。あいよ、わかった。俺にどのぐれえのことができるかは知らねえが、できるだけのことァしてやるぜ。ありがとうございますと母猫は、振り返り振り返り、去って行ったのであった。
2匹の仔猫のうち1匹はグレたが、もう1匹は立派に育った。それがチョロである。
ただし彼は立派に育ちすぎて界隈のボスとなり、そこいらじゅうに子供を作った。わが家に寄せられた苦情と指導との原因は、ほとんど彼であった。
しかし、可愛かった。新しい女ができるといちいち私に紹介し、子供が生まれればわざわざ見せに来た。
そんなチョロであるから、複雑な猫間関係に悩んだ末、駆け落ちでもしたのであろうと思うことにしているが。
クロが消えたのは夏の盛りであった。
これはその名の通り真黒な牡猫で、足の先だけ白いソックスをはいていた。
近所の米屋に迷いこみ、何とかしてくれと言われたので引きとることにした。仔猫のころからまことに人なつこい、愛すべき性格の猫であった。
成長するに従いボス猫チョロと反目するようになったので、こんこんと説諭をした。
おのれは長幼の序というものを知っておるか。この先諍(いさか)いを起こすようであれば、私は家庭平和のため心を鬼にしておのれを捨てねばならぬ。悔い改めるか、さもなくばいっそ男を捨つるか、と迫った。
タイプからいうと、チョロは町人であったがクロは武士であった。私の説諭に対して、彼は毅然としてこう答えたのである。
父上、いかに長幼の序とはいえ拙者も男、同じ猫に頭を下げるわけには参りませぬ。ならばいっそ男を捨て、みなと共に暮らしましょう。で、翌日さっそく病院に行き、いさぎよくオカマとなった。
クロの失踪については、むしろ出奔と呼ぶ方がふさわしかろうと思う。
愛の言葉を遺して去ったミルク
夏の終り、私の溺愛していたミルクが消えた。
ミルクは拾ってきたころから牛乳が好きであったので、ミルクと名付けた。脱脂綿に含ませた牛乳を、母の乳房にすがるようにしてよく飲んでくれた。そのせいで、よもや育つまいと思われたものが生き延びた。
しかし、やはり長じても体は小さかった。そのうえひどいブスであった。ブスの深情けで、私にはよくなついた。
いや彼女はたぶん、1個の女性として私のことを愛してくれていたと思う。夜は私の首にまとわりついて眠り、昼間はほとんど、肩の上に乗っていた。原稿を書いているときも、ずっとそうしていた。
四十肩になって、右の肩が痛いと言うと、左の肩に乗った。それでも夜にはちゃんと右の肩に体を寄せて、温め続けてくれた。
ミルクは死んだと思う。
生来が弱い猫であったから、しばしば病院に行った。たいそう頭が良く、そこがどこであるか、獣医が誰であるかを認識しており、診察に際しては実に神妙にしていた。
餌を食べなくなり、めっきりと痩せてしまったので病院に連れて行ったところ、その日に限って珍しく嫌がった。ことに獣医が、ちょっと高価な薬ですけれどと言ってインターフェロンを注射しようとしたところ、激しく抵抗した。
帰り途、たそがれの公園のブランコに乗りながら話し合った。
「あたし、もういいよ。8年も生きたんだから…」
ミルクは私の腕の中で、たしかにそう言った。
「なに言ってるんだ。金のことなら心配するな。俺は8年前とはちがうぞ」
「でも、自分の体のことは、自分が一番知ってるわ。注射なんて、するだけムダよ」
「治してやるよ。今までだって、ちゃんと治ったじゃないか」
「もう、いいってば」
ミルクは私の手をすり抜けて逃げてしまった。
それきり1週間も行方が知れなかった。あちこち探しあぐねてあきらめかけたころ、真夜中に愛犬パンチ号が吠えた。書斎の窓を開けると、真暗な塀の上にミルクが座っていた。骨と皮ばかりの姿であった。
話しかけても、じっと私を見つめるだけで、答えてはくれなかった。
たくさんの猫と暮らしてきて、こういうことはいくどもあった。情の深い猫は別れを告げにくるものなのだ。
あたりには秋虫がすだき始めていた。
よろよろと立ち去るとき、ミルクは虫の音よりもか細い声で、ひとことニャアと鳴いた。
「さよなら。ありがとね」
と、ミルクは言ったのだった。
それが彼女の、できうる限りの真心であったにせよ、そんな言葉は聞きたくなかった。
ミルクは月あかりの薮に消えてしまった。呆然と立ちすくみながら、8年前の出会いのことばかりを思い出した。母の乳にすがりつくように、脱脂綿を吸ってくれた。あれほどけんめいに生きようとし、育とうとしたのに、どうしてこんなにも簡単に命を投げ出してしまうのだろうと思った。
だが、こうも思った。生きるということは本来そういうものなのかも知れない。人間ばかりが、その潔さを忘れてしまっているだけなのだ。
ミルクの姿はどこにも見当たらなかった。夜が明けてもういちど近所を探してみたが、どこにもいなかった。
さよなら、ありがとね。こんな愛の言葉を遺して、その存在をあとかたもなくかき消すような死に方は、人間には決して真似はできまい。
ミルクが死んだという確証はない。おそらく、どこかで生き永らえているかも知れないという希望を私の胸に残して、彼女は死んでくれたのだろう。
人間は最も愛を忘れた動物だ。
(初出/週刊現代19966年10月5日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。