浅田次郎の名エッセイ

暑さに弱い作家・浅田次郎が“夏バテ”で7キロ減!? その本当の理由とは…

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第115回は、「夏ヤセについて」。

猛暑と想定外の営業活動で体重7キロ減

ひどい夏ヤセをしてしまった。

もともと暑さには弱い。気温が摂氏25度を越えると、はや倦怠感、脱力感、食欲不振といった症状が現れ、30度を越える盛夏ともなれば、不眠、虚無感、勃起不全、戦意喪失、ということにあいなる。

昨年は準備万端おさおさ怠りなく一夏をホテルにこもって乗り切ったのであるが、今年はなぜかイレギュラーな仕事が多く、防衛計画の大網も立てぬ間に猛暑となってしまった。

かつて自衛隊時代、防御陣地構築中のところを、戦車1両を含む優勢なる敵一個小隊に急襲され、あえなく全員戦死しちまった苦い経験を思い出す。たしかあれも、炎天下の東富士演習場であった。

用心しいしい仕事はとっていたのである。古い付き合いの編集者は、私が夏場に弱いことを知っているので、さほどの無理は言わなかったのである。折しも本稿の単行本『勇気凜凜ルリの色』および『天切り松 闇がたり』が続けて刊行されるはこびとなったので、この夏の戦果はこれで十分、あとはオーストラリアにでも行ってヒツジと遊ぶべい、と思っていたところ、たいそうイレギュラーなことになった。

どうしたわけか両2冊が、発売と同時にたいそう売れてしまい、やれ重版だァ、インタヴューだァ、サイン本だァ、てなことになっちまったのである。

元来私の著作は、ある日あるとき書店の棚にささやかな花を開き、ものの1週間後にはしおたれるように消えて行くことになっていた。であるからして、『蒼穹の昴』の大重版出来(しゅったい)はいわゆる狂い咲きであろうと考えていたわけなのであるが、どうやらその余波のせいか、前記2巻もよう売れた。

暑さに対する防御はまあ考えていないでもなかったが、重版についての対応策はてんで頭になかった。しかも、自衛隊除隊以来このかた営業関係が長く、現在も「トップセールスの矜(ほこ)り」みたいなものをどこかに抱いているので、つい燃えた。

考えてみれば、サインやインタヴューはともかく、ほとんど講談社販売部員になりきって書店まわりをする作家がどこにいようか。徳間書店社員になりかわって『天切り松』をよろしくと、頭を下げてモミ手をする小説家がどこにいるであろう。

こうして私は、直木賞落選のショックとはもっぱら関係なく、ひたすら営業活動のために7キロも痩せた。

嘘ではない。断じて計量ミスでもない。ナゼか競馬収支明細表のかたわらに記入してある週末の体重(馬体重ではなく私の体重)は、6月30日札幌記念当日には68.5キログラムであり、1ヵ月後の第2回札幌最終日「札幌3歳ステークス」当日には61.4キログラムなのである。

このペースで行くと次週の函館開催にはへたすりゃ60キロを割るというおそれすらある。もし私が馬であれば、わずか1ヵ月の間の7キロ減は50キロ〜60キロ減に相当するであろう。これは異常である。

札幌→京都→銀座と、ハードスケジュールをこなしているので、輸送べりかとも思うが、環境の変化にはもともと対応性がある。まさか44歳馬にして発情期を迎えたわけはあるまい。やはり夏バテの上にイレギュラーな営業活動がたたったのであろう。一種の調教ミスであろうか。サウナの入りすぎにより例年に増して発汗がひどく、食中毒を警戒するあまりカイバ食いも悪く、エアコンがぶっこわれてしまったので厩舎の寝心地は劣悪なのである。

ついに夢の体重60キロを計測!

ところで、私は数年前に「高脂血症」を宣告されて以来、ダイエットにこれ努めてきた。「とりあえず60キロを目標にしましょう」と医者は言ったが、誓いはほぼ5日後には破棄され、トップスのチョコレートケーキ1本食いを始めてしまった私であった。

これはいかんと反省して、しばしば糖分と脂肪分を控えたのだが、やはり5日後にはトップスのチョコレートケーキを1本食うというていたらくを、数年間続けてきたのである。宣告前には1日1本を日課としていたので、まあ努力といえば努力ではある。

それを考えれば、今回の夏ヤセは快挙であると言えよう。何しろさしたる努力はせず、任意の生活がはからずもダイエットを成功させたのである。

——さて、前行までを書いたところで私は何だかものすごく得をした気分になり、突如として銭湯に行ってきた。

いま書斎に戻って続きを書き始めたところである。まずはご報告。8月2日午後4時20分現在、馬体重じゃなかった私の体重はさらに減少し、ついに夢の60キロを計測しておったのである。

たしか医者は、60キロになれば脂肪肝は必ず改善されると言っていた。うむ、そういえばちかごろ、歯を磨くときオエッとはならず、腹部の湿疹(しっしん)も出ず、皮膚の色ツヤも良い。

思えば60キロという体重は、今を去ること四半世紀前の陸上自衛官時代と同じである。高カロリーの糧秣(りょうまつ)をくらい、山川を跋渉(ばっしょう)してそれを余すところなく燃焼させていたころの、理想体重なのである。

もちろん同じ肉体を取り戻したなどとは言わない。かつて鋼のようであった胸はマシュマロのようである。サラブレッドの後肢のようであった足は、棒杭のようである。砦に積み上げた土嚢(どのう)のようであった腹筋は、何にたとえようも、ぜんぜん見当たらない。おまけに全体を、ふんわりと色白の脂肪が被(おお)っている。

視覚的にはたしかに醜い。だが、とにもかくにも25年前と同じ体重をついに取り戻した。

あとはこれ以上の体重の減少を、どんなに食欲がなくても必ず食えるトップスのチョコレートケーキで食い止めればよろしい。そう、まさに食い止めるのである。

そして明日から毎月恒例の京都取材に行っても、なるたけ炎天下は歩き回らずに夜の祇園でウーロン茶を飲みたおし、ホテルの冷房をめいっぱい効かせてぐっすり眠ればよい。なおかつ要すれば、帰京後すみやかに都内のホテルに入り、所在不明のままファックス仕事をしつつ、秋を待つ。

そういえば、体重とはぜんぜん関係ないかもしらんが、ほぼ1年間猖獗(しょうけつ)をきわめていた四十肩が、ケロリと治った。

本稿にてその悩みを打ちあけた後、全国の同病読者からたくさんの有難いお手紙を寄せられ、さまざまの自家治療法を教示していただいた。その結果、ついにケロリと治ったのである。角度によって多少の痛みは残っているが、あのうずくまるような激痛からは完全に救われた。

さらに、これは体重の減少に伴う肝機能の改善とたぶん関係があると思うのだが、長年悩まされていた「胸ヤケ」もウソのように治った。

かつては食後ただちに制酸剤を用いねばならず、ウーロン茶のかわりにペリエ(フランス製の炭酸飲料で、知る人ぞ知る胸ヤケの特効薬)を牛飲せねばならなかった。しかし今や油物をヤマのように食っても、胃壁はビクともしない。

四十肩も治り、胸ヤケもせず、中性脂肪値も下がったともあればもはや怖るるものは何もない、という気がする。

このままじっと暑さを耐え忍んで、営業仕事はなるたけ出版社に任せ、季節のないホテルの密室で遅れた原稿を書くとしよう。

——いま、嬉しさのあまりペンを置いて、体重が夢の60キロになったことを家人に報告した。ここだけの話だが、家人の体重はほぼ私と同じレベルであり、当然ダイエットには腐心している。いささか当てつけがましくもあるが、私は事実をありのままに伝えた。

と、家人はダンベルを握る手を止め、突然こわいことを言った。

「1ヵ月で8キロ?…そりゃふつうじゃないわ。ついに肝癌よ」

明日、京都へ出発する前に、病院へ行く。

(初出/週刊現代1996年8月31日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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