松平定知の「一城一話55の物語」

歴史を動かした真田昌幸の智謀 「上田城」で徳川の大軍を苦しめたゲリラ戦術

上田城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

武装した農民の力を引き出した この時真田昌幸がとった作戦はいわゆるゲリラ戦で、敵を挑発しては城内に引き込み、武装した農民も加わって倒すというものでした。昌幸は農民も町民も身分に関係なく、敵を倒したものには褒美を与えるとふ…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

長野県立上田高校の校歌に出てくる「英雄」とは?

上田城といえば、真田昌幸が籠城し、2度にわたって徳川の大軍を退けた上田合戦が有名です。真田氏は地元の人たちに愛されており、真田の屋敷跡に建つ県立上田高校の校歌には、「関八州の精鋭を此処に挫きし英雄の~」というフレーズがあります。上田合戦の時は、農民や町民とともに戦ったことが記録に残っており、昌幸の善政が偲ばれます。

信長が本能寺の変で横死すると、旧武田領をめぐって徳川家康、北条氏直、上杉景勝による天正壬午(てんしょうじんご)の乱が起きます。この時上杉は信州北部、徳川は甲斐とそのほかの信州、北条は上野と、旧武田領は分割されました。真田は当初北条につきますが、後に家康方へと身を翻します。そして真田昌幸は家康の後ろ盾で、上田城の築城を開始するのです。

上田城 Photo by Adobe Stock

権謀術数を使って生き残る

戦国の世は激動を続け、天正12(1584)年、家康と秀吉は小牧・長久手の合戦に至ります。家康は秀吉対策として北条氏直と手を組もうとし、昌幸に沼田領を北条に譲るよう要請しますが、これを昌幸は拒否、徳川と断交します。この時次男の信繁(幸村)を上杉景勝に人質として送り、今度は上杉の援助で、上田城の築城を続けるのです。めまぐるしく主家を替える真田昌幸ですが、真田のような小大名は権謀術数を使って、生き残っていくほかなかったのです。

天正13(1585)年8月、ついに徳川軍が7000の大軍で攻撃してきます。守る真田軍は6分の1の1200、ここに第一次上田合戦の火ぶたが切って落とされました。徳川方の総大将は後に関ヶ原の戦いの前哨戦となった「伏見城の戦い」で討ち死にした、あの鳥居元忠でした。

上田城本丸西櫓 Photo by Adobe Stock

武装した農民の力を引き出した

この時真田昌幸がとった作戦はいわゆるゲリラ戦で、敵を挑発しては城内に引き込み、武装した農民も加わって倒すというものでした。昌幸は農民も町民も身分に関係なく、敵を倒したものには褒美を与えるとふれ、力を引き出します。民衆は大木を転がしたり火を放ったりして敵を苦しめ、兵士は鉄砲で寄せる徳川勢を狙い撃つなど、さんざんに苦しめます。

こうして家康を撃退した真田昌幸でしたが、秀吉の調停もあって再び徳川家に仕えることになりました。

上田城本丸跡にある眞田神社 Photo by Adobe Stock

最終目標は「真田家の存続」

それから15年。家康は上杉景勝に謀反の疑いありとして会津討伐に向かいます。慶長5(1600)年のことです。真田家も家康に従うべく宇都宮城に向かいましたが、宇都宮城の手前、犬伏にあった陣所に、石田三成の蜂起を知らせる密使が到着します。

ここで真田父子三人が「今後」をテーマに語り合うのですが、ここでも昌幸の知謀が光ります。昌幸の最終目標は「真田家の存続」でした。世の趨勢から「今後の日本は家康かな」と直感していた昌幸は、すでに嫡男の信之の妻に、家康の重臣・本多忠勝の娘(小松姫)をもらうという布石を打っていました。

ですから、当然信之は徳川につき、徳川勝利の折の真田家は安泰とします。その一方で、自分(昌幸)と次男信繁(幸村)は上田城に戻るという結論を導き出します。これは万一、石田方が勝った場合のためで、その場合、真田家は大封を得、小大名から抜け出せるという計算、つまり「保険をかけた」のです。この「犬伏の別れ」と「小山評定」のあと徳川軍は家康が江戸に戻ります。

眞田神社から見た上田市の街並み Photo by Adobe Stock

3万8000対2500の戦い、兵力差は15倍

家康は、そのまま江戸城に入り、開戦前に184通の書状をしたためたあと、9月になって江戸城を発ち、東海道を西に進みます。江戸城を出た徳川軍は、家康隊と秀忠隊の二つの隊。秀忠隊は本多正信、榊原康政、土井利勝など旗本たちが名を連ねた徳川軍の主力部隊で、その兵の数は3万8000人。家康隊は福島正則や黒田長政など外様大名たちを中心に東海道を行きますが、秀忠隊は中山道と、別の道。これは同じ道を通って、2人同時に戦死するリスクを避けるためでした。

秀忠隊は中山道まわりですから、信州、上田城を通ります。秀忠には15年前の屈辱が頭をよぎります。「今回こそ、上田城を獲ってしまおう!」

この時も昌幸は、2500の兵を率いて籠城します。3万8000対2500ですから兵力差は15倍です。いくら戦上手と知られる真田昌幸とて、今度ばかりはと誰もが思ったことでしょう。そこに昌幸の勝算があったのです。昌幸とすれば、本隊である秀忠軍が遅参すれば、それだけで西軍が有利という計算が働いていたのに対し、早く片付けて先を急ぎたい秀忠軍は、真田軍をおびき出すべく、城下の稲を刈り取る戦法に出たりします。

外様大名が関ヶ原で活躍した背景は…

それに対して真田軍は、一戦交えた後あえて城に引き、徳川の各部隊が大手門に迫ったところで、城から一斉に鉄砲を撃ちかけました。これで徳川軍は総崩れ。この時を逃さず信繁(幸村)軍は野戦に出て、敵の本陣を奇襲、さらに近くを流れる神川の堤防を決壊させ、徳川勢は人馬が流されるなど大打撃を受け、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。そのぶん外様大名が大活躍。彼らに、家康は褒美として多くの領地を与えねばならなくなったことで、家康は怒ったといわれます。

たしかに、京都より西は、ほとんどが外様大名の領地となりました。でも、この秀忠大遅刻事件も家康、秀忠の両者が東海道と中山道と違う道を通ったように、2人の同時戦死を避けた家康の深謀と見る人もいます。関係者に事前に根回しして、わざと遅らせたのだ、と。真偽のほどはわかりませんが、昌幸、家康の知謀は、結果として歴史を動かしました。

上田城 Photo by Adobe Stock

【上田城】
真田昌幸によって天正11(1583)年に築城された平城だが、関ヶ原の戦いの後、徳川氏によって破脚された。元和8(1622)年、仙石忠政によって再建されるも、死によって中断。その後、平成5(1993)年になって本丸東門復元、平成6年、明治年間に遊郭に払い下げられていた櫓2棟が移築され、櫓門が復元された。
観覧料:一般300円、学生(高校生以上)200円、小・中学生100円(上田城南櫓・北櫓・東虎口櫓門)
営業時間:9時~17時
休館日:水曜日(祝日が水曜日に当たるときはその翌日、12月29日~翌年1月3日)
住所:長野県上田市二の丸6263番地イ
電話:0268-22-1274(上田市立博物館)

【真田昌幸】
さなだ・まさゆき。1547~1611年。甲斐の武田氏の重臣、真田幸隆の三男として生まれる。長男、次男が戦死したため家督を継ぐ。7歳で武田氏に人質として入り、信玄の寵愛を受ける。一説によれば、初陣は1561年の第四次川中島の戦いとされ、本能寺の変の後、主家を次々に替え、生き残りを図る。ゲリラ戦を得意とした戦国時代最高の謀将として知られ、1585年と1600年に起きた2度の上田合戦において徳川氏を苦しめる。西軍の敗戦で蟄居の身となり、1611年死去。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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