初代三菱ミラージュは1978年にデビューしたFFコンパクトハッチバックで、スターレット、シビック、シャレード、ファミリアと熾烈な覇権争いを展開しました!!
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第24回目に取り上げるのは、初代三菱ミラージュだ。
1970年に三菱重工から分社化
三菱ブランドのクルマの歴史は古い。日本初の量産乗用車の三菱A型は1916年に登場し、現在に至るまで三菱ブランドのクルマは数多く登場している。
日本の乗用車メーカーは2024年の現在、トヨタ、日産、ホンダ、三菱、マツダ、スバル、スズキ、ダイハツ、ミツオカの9つある。
最も新しいのは1994年に国産自動車メーカーとして認定されたミツオカで、その次が三菱自工ということになる。ホンダのほうが新しいように感じるかもしれないが、そのホンダは1963年から四輪車に参入している。それに対し三菱自工は1970年に三菱重工から分社化されたのだ。
重工時代も自工になってからも販売されたクルマは三菱ブランドで変わらないためわかりにくいが、今で言う三菱はかなり新しい。
広島県では三菱車は少数派!?
三菱は旧財閥であり、戦前は三井、住友とともに日本の三大財閥と言われた名門。財閥解体後も三菱グループは日本の経済界において大きな影響力を持っている。三菱自工はその三菱グループのクルマ担当という位置づけゆえに、三菱車はその三菱グループ内の需要だけでも食いっぱぐれることはない、と言われるほど。
筆者は広島県の呉で生まれ育ったのだが、筆者の父親世代は、「三菱車に乗っている=三菱グループに従事」というイメージがあったようだ。まぁ、筆者が子どもの頃は、そこまで極端ではなかったものの、マツダのお膝元という地域柄を差し引いても、三菱車を目にする機会は多くなかったのも事実。
第一次ハッチバックブーム到来
1960年代後半のマイカーブームを経て1970年代の日本車はいろいろな車種が登場して盛り上がりを見せることになるが、初代ホンダシビック(1972年)の登場は大きなトピックで、ハッチバックボディの流行を作った。
ハッチバック人気は4代目ファミリア(映画『幸せの黄色いハンカチ』に登場したモデル)、初代ダイハツシャレードが1977年に登場してから決定的となった。そして初代では2ドアクーペと4ドアセダンというラインナップだったトヨタスターレットも翌1978年2月に2代目をハッチバックボディで登場させた。
そしてスターレットデビューの翌月に初代三菱ミラージュがデビューした。初代ミラージュは三菱が日本の第一次ハッチバックブームの真っ只中に登場させた渾身のモデルだ。
時代は前輪駆動のハッチバック
1970年代の日本のクルマ界は、低公害、安全性の向上に加え、1973年の第一次オイルショックによる燃費性能の追求など多くの課題に直面。三菱の開発陣はミラージュを登場させるにあたり、大きな課題をクリアしつつ、走る楽しさも追求したという。
BMCミニが先鞭をつけたコンパクトハッチバック+FF(前輪駆動)は世界的なトレンドとなっていて、日本ではシビックがいち早く採用。初代ミラージュもFFの2ボックスで登場。ちなみにFFは三菱の市販車では初のトライとなった。
三菱は1976年に登場させたギャランΣ(シグマ)、ギャランΛ(ラムダ)が販売面で大成功。クルマは不思議なもので、ヒットモデルが登場するとその勢いがほかの開発中のモデルにも伝播する。実際にΣ、ラムダの勢いは初代ミラージュに見事引き継がれたのは言うまでもない。
コンパクトハッチのFR対FF
日本のコンパクトハッチバックが大人気となったが、オモシロいのはその駆動方式。シビック、初代ミラージュ、初代シャレードがFFなのに対し、4代目ファミリア、2代目スターレットはFR(後輪駆動)。それぞれ一長一短あるが、同じカテゴリーで違う駆動レイアウトが選択可能だったこの時代が羨ましい。
初代ミラージュは、足回りにもこだわりを見せていて、当時としては贅沢だった4輪独立懸架を採用し、「古典的なFRよりも最新のFF」を大々的にアピールしていた。クルマ界の永遠のテーマであるFRとFF論争は、最終的には「お好きなほうをどうぞ」が結論となるのだが、言い争うことが楽しいのだ。
デザインはヨーロピアンテイスト
初代ミラージュはシンプルながら飽きのこないエクステリアデザインも大きなポイントだ。曲面よりは直線で構成されたデザインで、スラント(傾斜が付いている)したフロントマスク、大きな角度の付いたリアエンドなどによりヨーロピアンテイストにまとめられている。
特筆は細いピラー類と大きなガラスエリアで、クルマの空力が云々言われ始める前にピラーとガラス面の段差が小さいフラッシュサーフェイス化を日本車でいち早く導入した点だろう。当然これは高速走行時の遮音、安定性、燃費を考慮したもの。
実はミラージュを開発するにあたり、もうひとクラス上のボディを持ったハッチバックも検討されていたというが、当時の三菱はクライスラーと提携。そのクライスラーのイギリスの子会社であるクライスラーUKとフランスの子会社のシムカでホライズンを販売していたため、それとバッティングするのを避けて小さなクラスでの登場となったという。これは大正解だっただろう。
シフトレバーが2本!?
筆者が初めて初代ミラージュを運転したのは大学生の時。ミラージュはすでに2代目となっていた時で、通っていた大学の自動車部のいわゆる部費で買った”部車”だった。筆者はバレーボール部だったが、自動車部の友人がいたため、いろいろなクルマを運転させてもらったその一台が初代ミラージュ。
ミラージュといえばスーパーシフト。このスーパーシフトには面喰った。「やっぱりね」とニヤリと笑う友人を助手席に乗せて運転したのだが、初見では操作方法がわからない。
聞けば4速MTにLOW/HIGHが切り替えられる副変速機が付いているだけ、というが、その”だけ”が大問題なのだ。
説明で4速×2の8速として使うことができるというが、頭の中では8速をフルに使うためには2本の腕で変速操作? と大混乱したが、実際は何のことはない、副変速機を固定していればいいだけの話だった。
筆者にとっての大きな財産
副変速機はLOW側がPOWERとHIGH側がECONOMYとなっていて、前に倒すとPOWER、後方に引くとECONOMYとなり、どちらかに固定して普通に4速ミッションを変速していく。
友人は燃費をよくしたい時や高速道路走行中はECONOMYに固定して走り、坂道やワインディングなどではPOWERに切り替える、という使い方をしていると言っていた。
まぁマニュアルトランスミッションながら、オートマチックのようにオーバードライブが搭載されていると思えばわかりやすいと思う。このスーパーシフトはコルト、トレディア、コルディア、シャリオにも搭載されていたが、1990年にその使命を終えた。友人のお陰で貴重なスーパーシフトを体験できたのは筆者の財産だ。
ユーザーのニーズに合わせて進化
ミラージュは成功したクルマの例に漏れず、絶えず進化していった。デビュー時は3ドアハッチバック(三菱では2ドアと呼んでいた)のみだったが、すぐに5ドアハッチバック(同4ドア)を追加し、より乗降性の高い5ドアは人気となった。
そしてエンジン。デビュー時は1.2Lと1.4Lエンジンの2種類ありどちらのエンジンも軽い回転フィールで非常にスムーズ。ミラージュの楽しい走りにも大きく貢献していた。
その一方でコンパクトハッチバックにもパワーウォーズが訪れ、それに合わせて1.6Lのハイパワーモデルを追加してユーザーのニーズに応えると同時にライバルに対抗。
エンジンでは、1982年にコンパクトハッチバッククラスでは初となる1.4Lターボエンジンを搭載し、パワーウォーズをけん引するなどこの当時の三菱はイケイケ状態だった。
ちなみに、ターボエンジンと同時に4ドアセダンも追加され、この時に車名がミラージュからミラージュIIへと変更された。マイチェンで車名が変更されるのは珍しい。
子どもに見せちゃダメ!?
ミラージュのTV CMと言えばエリマキトカゲが一世を風靡したが、これは2代目ミラージュ。初代ミラージュのTV CMはエリマキトカゲ編のようなインパクトはなかったが、いろいろなバリエーションが製作され放映された。
個人的に一番印象に残っているのは、特別仕様車の『BLACK MIRAGE』(1879年・450台限定)のCMで6人の外国人女性モデルがそれぞれM、I、R、A、G、Eと書かれたパンツをはいて踊って、最後に6人並んでMIRAGEの文字を見せるというもの。子どもにとってはちょっとエロっぽくてドキドキしたものだ。
そのほかではミラージュIIになってからのCMで、アメリカのインディ500のインディアナポリスを走るというもの。合成していたのだと思うが、出来はよかった。
プロモーションが斬新
ミラージュはプロモーションにこだわっていたのは特筆に値する。
まずはカタログ。クルマのカタログは今ではすべて合成写真となっているが、昔はロケが当たり前。三菱はミラージュの車名に合わせて、アメリカのロサンゼルス近郊にあるエル・ミラージュ湖での撮影。このこだわりが凄い。
続いてはミラージュボウル。NCAAカレッジフットボウルの試合を三菱がスポンサーとなり1977~1985年まで東京で開催。前身はパイオニアボール、1986年からはコカ・コーラボウルとなったが。デビュー直前の1977年はミラージュのプレキャンペーンとして開催されていた。
もうひとつは映画『未知との遭遇』(日本では1978年2月公開/スティーブン・スピルバーグ監督作品)とのコラボ。ミラージュのデビュー直前に日本後悔となった話題作とタイアップして、CMやポスターで大々的にアピール。ただし、初代ミラージュは作中には一切登場しない。単なるイメージ戦略だったが、やることが積極的!!
若者の取り込みに成功
初代ミラージュは販売面でも成功し、長きにわたって三菱の最量販車種に君臨。ランサーとともにモータースポーツ車両としてもクルマ好きを支えてきた。
初代ミラージュの登場を機に三菱ギャラン店しかなかったところに三菱カープラザ店(現在は消滅)という販売チャンネルが新設された。
前述のとおり、三菱はギャランΣ、Λの成功により知名度を上げた三菱だったが、最優先課題は若者の取り込み。
ちょっとお堅いイメージのあった三菱車にあってクルマ好きの若者に欲しいと思わせたのは、初代ミラージュだったのは間違いない。
【初代三菱ミラージュ1400GLX主要諸元】
全長3790×全幅1585×全高1350mm
ホイールベース:2300mm
車両重量:795kg
エンジン:1410cc、直列4気筒SOHC
最高出力:82ps/5500rpm
最大トルク:12.1kgm/3500rpm
価格:92万2000円(4MT)
【豆知識】
三菱のビッグネームであるギャランは1969年に初代がデビュー。ここで取り上げる3代目は1976~1980年の間に販売されたモデル。ギャランシリーズに初めてΣのサブネームが付けられたモデルで、Σは4ドアセダン&バンのラインナップ。同じコンポーネントを使った2ドアクーペとしてΛも用意され、どちらも大ヒット。
エクステリアデザインはΣがヨーロピアンテイストだったのに対しΛはアメリカンテイストと差別化されていた。特にΛはクライスラーにOEM供給され、プリムスサッポロ、ダッジチャージャーとして販売されていた。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/MITSUBISHI、ベストカー