浅田次郎の名エッセイ

6キロの減量に成功したのに?浅田次郎が医者に「不摂生」だと説教された“もっともな理由”

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第124回は、「不摂生について」。

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第124回は、「不摂生について」。

ダイエットをしたわけでもなく病気でもないのに

「浅田さんの真骨頂は何といってもパブリックな話題です。近ごろプライベートな内容に終始しているようなので、そのあたり、よろしく」

と、担当編集者が言ってきたので、編集者を天使と信じている私は、今回こそ力いっぱいプライベートなエッセイを書こうと心に決めた。

私は存在そのものが極めてパブリックなオヤジであるので、私個人のプライベートな事情を書くことはすなわち、パブリックな話題を提供することに他ならないと信ずるがゆえである。

ただし本当のことを言うと、ここしばらくテレビも見ずラジオも聴かず、新聞も週刊誌も読まぬ牢獄のごとき生活が続いているので、世の中でいったい何が起こっているのかまったく知らんのである。

1ヵ月で6キロも痩せてしまい、いくらか見場が良くなった。べつに好んでダイエットをしたわけではないが、68キロから62キロへの減量というと、面相もかなり変わる。そうかといって病気ではないから、不摂生はともかくとして、どことなく引き締まった感じがする。

なにしろ受賞の御礼に版元を訪れた際、私をハゲデブメガネの三重苦中年としか認識していなかった編集者たちは、みな「おおっ」とどよめき、その足でスタジオ入りして新しい広告用の写真を撮影したほどであった。

ところで、本稿の愛読者の方はすでにご承知と思うが、私は脂肪肝と高コレステロール症を抱えている。何でもこれをほっぽらかしておくと、しまいには肝硬変になったり狭心症になったり、脳卒中で倒れたりするそうであるが、自覚症状がてんでないものだから治療をする気がない。

べつに重症というわけではないので、かかりつけの医者からもそうやいのやいのとは言われず、ただ一言「体重を落としなさい」と忠告されていた。

ふと、たしか1年ぐらい前にそう言われたことを思い出し、私は快哉(かいさい)を叫んだ。根が食いしん坊であるから、食事を制限して体重を落とそうなどということはまったく考えなかった。むしろ、食いたいものも食えずに長生きするくらいなら死んだ方がマシ、とひそかに思っていた。

それが、まさにヒョータンからコマとはこのことで、激務に追いまくられた結果、みごとに痩せたのである。

寝ずの糖分の大量摂取は、覚醒剤中毒のようなもの

というわけで過日、意気揚々とかかりつけの医者を訪ね、自信満々の血液採取を行った。たしか1年前、「5キロ落とせばだいぶちがう」と言われた。5キロ落としてだいぶちがうのなら、6キロ落ちればずいぶんちがうはずである。

おそらく私の肝臓は青年のごときピンク色に変わっており、血管はヴェネツィアン・グラスのように澄み切っているであろう。

ところが、検査結果を見て医者は憮然とし、私は愕然とした。

「本当に食事の量を減らしましたか?」

「そんなの見りゃわかるでしょう、見りゃあ。ちなみに、ほら。これが初版発売のときの広告写真です。実はここだけの話ですがね、この写真と表題『鉄道員(ぽっぽや)』というのを見て、これは定年退職した駅員が書いたドキュメントだと勘違いして買っていったJR関係者が大勢いるんです。でっぷりと肥って、妙にふけてて、たしかにそう見えるでしょう」

「……まあ、言われてみれば」

「次に、こっちの広告を見て下さいな。これは減量後に撮影したものです。顔がひと回り小さくなって、どことなくイタリアンでしょう。あんまり写りがいいので、サイン会では先着200名様にサイン入りブロマイドにして配るのです。どーでう、ぶっちぎりの企画でしょう。ちょっと下品だけど」

「あのね、そんなことはどうでもいいんです。もしやあなた、食生活を変えませんでしたか。変なふうに」

「え?……食生活って、何だか懐かしい言葉だな。≪生活≫なんてそういうまともなものはこのところないです。食生活とか、性生活とか」

「ではお訊ねしましょう。昨日の食事メニューを教えて下さい」

「きのう?……ええと、メシは食ってませんけど」

「何も食べなかった?」

「いえ、メシを食うヒマがないものですから、そこいらにあったものを食べました」

この回答はいささか詭弁(きべん)であった。メシを食うヒマがないはずはない。正しくはさる特殊な事情により、メシまで手が回らないのであった。

「えーと、まず起きぬけにトップスのチョコレートケーキ。朝食は音羽郡林堂の大福。うまいですよ。10時頃小腹がへったので倉敷清閑院の葛切(くずきり)。昼メシのかわりにユーハイムのフランクフルタークランツ。3時のおやつは帯広六花亭の『十勝日誌』という詰め合わせを適当に。あと、鎌倉吉兆庵の葛餅ですな。さすがに胸が灼けたので夕張メロンをハーフカット。夕食は神田柏水堂のシュークリームに舟和の芋羊羹」

「ストップ!」

と医者は洒落た。ドクター・ストップである。

「体重が減ったにもかかわらず、体脂肪がはね上がった理由はそれですよ」

「ちょっと待て。体重を落とせば症状は改善できるって言ってたじゃないですか」

「それは、ふつうの食生活を営んでいる人の場合です。どう考えてもあなたはふつうじゃない」

「でも仕方ないんです。あなた、群林堂の大福がどのくらいうまいか知ってるんですか」

「うまいまずいは聞いていません!」

医者が言うには、私の減量はただの不摂生によるものであって、夜もろくに寝ずに糖分の大量摂取をしているのは、覚醒剤中毒のようなものだそうだ。

しかしそうは言っても、群林堂の大福はうまい。清閑院の葛切はほとんど文化といってもよく、六花亭の「十勝日誌」は詰め合わせ菓子の直木賞といえよう。

命をとるか人の道をとるかという究極の選択

つまり、こういうことだ。

このところ毎日やってくるインタヴュアーが、必ず手みやげの甘味をお持ち下さるのである。本稿のせいか銀座の噂かは知らんが、酒が1滴も飲めずもっぱら甘いものばかりを好むという事実は、広く業界に知られているらしい。

いくら好きだからといっても甘いものを食べるには酒とちがって限度がある。毎日ひとつかふたつの菓子折が届けば、かなり頑張ってもそうそう消化しきれるものではない。しかもまずいことには、家人は本気のダイエット中、娘は体重が気になるお年頃、母は糖尿病である。家長としての責任は私が一身に負うことになる。

暑いさなかはるばる取材に来て下さるみなさんの心づくしの祝福を、よもや腐らせるわけにはいかない。このたびはおめでとうございます、さし出された菓子折を腐らせて捨てるぐらいなら、毒を食らって死ぬ方がよいと思う。

かくて私はこのところ、体重の激減にもかかわらず体脂肪が急増という、最悪の状態に陥っているのであった。しかし私にとって甘いものを食うか食わざるかは、いま命をとるか人の道をとるかという究極の選択なのである。

こんこんと説教をした後で、医者はこう付け加えた。

「それから、こういうやりとりをですね、面白おかしく週刊誌に書いたりしないで下さいよ。笑いごとじゃないんですから」

深夜1時。ただいまキッチンの一角にある「菓子置場」を覗いたところ、銀座コージーコーナーのフルーツケーキ詰め合わせ、及びマキシムのクッキーがあったので書斎に運んできた。

私が授賞式を明日に控えたいま、せつせつとこのようなエッセイを書く真意を、業界関係者のみなさまはどうか汲みとっていただきたい。

はっきり言って、煎餅(せんべい)が食いたい。

(初出/週刊現代1997年9月6日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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