バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第125回は、「見栄について」。
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第125回は、「見栄について」。
浅田家の朝に現われる毛虫付き火焔太鼓
私はミエッぱりである。
日々これ見栄で生きていると言っても決して過言ではなく、良くも悪しくも、まず格好を気にする。
話はほとんど前回の「ハゲ」の続きのようであるが、私がかくもハゲにこだわる理由も、つまりは人並はずれたミエッぱりのせいなのである。
したがって、私のお出かけはたいそう時間がかかる。
まず入念にシャワーを浴びて足指のマタまでていねいに洗い、頭髪のセットを健常な人以上に精密に行う。ここでいう「精密」とはブラシ、クシ、ドライヤーのレベルではなく、ピンセットの世界である。「1本単位の精密さ」と言えばわかりやすい。
次にパンツを替え、ヒゲを整え、お召物を選ぶ。
本稿ではあまり書いてはいないが、私はもともとアパレル業界人で、オシャレにはけっこううるさい。だからコーディネートには存分の時間をかける。
かくして1時間半ないし2時間ののち、ようやく出発の運びとなる。
ところで、この身づくろいは年齢とともに時間を要するようになった。つまり、若い時分は何を着たってサマになるのであるが、齢とともにハゲを隠し腹を隠しせねばならんので、手間がかかるのである。
さらに言うのなら、若い時分は家におるときも外出のときも、たいしたちがいはなかった。しかし年齢とともにその落差は大きくなる。
45歳の男の寝起きのツラというものを、本誌の読者にあえて説明する必要はあるまい。この年齢に達すれば、どなたも相当の時間とエネルギーを費して朝の身づくろいをしなければならぬはずである。
やや早熟な本誌読者の方、あるいはごくまれな女性読者のために、あえて私の寝起きの顔を紹介する。
寝覚めはよいのである。寝相も決して悪くはない。しかしだからといって他人に見せられるものであろうはずはない。
まず問題の頭髪であるが、薄くなれば手がかからぬかというと、ちがう。ハゲの寝グセはむしろ手に負えないのである。この点については多少の補足説明を要する。
ハゲとは、頭髪が抜け落ちるのと同時に、毛髪そのものが細く弱くなるのである。つまり、太い木綿糸がニクロム線に変質すると考えていただいてよろしい。
ニクロム線は弾力がてんでないので、折れりゃ折れっぱなし、はねりゃはねっぱなしで元には戻らない。したがって、ハゲの寝グセというのはなまなかのものではない。
ことに私の場合、先週告白した通りハゲ隠しのための精妙なカットを施している。ある部分は長く、またある部分は短く、というふうに、全日本カット・チャンピオンの手によってまこと芸術ともいえるハゲ演出がなされているのである。
ということは、寝起きの髪は爆発している。長短1本単位の精妙なカットを施されたニクロム線が、まるで1本ずつ命あるもののように勝手なベクトルを指向しているさまは、さながら火炎太鼓、いや、歩く護摩壇(ごまだん)と言うべきであろう。
ちなみに、私はこの予想だにせぬ偶然の形状を起き抜けに鑑賞することを、ひそかな娯(たの)しみにしている。そのくらい面白く、おかしい。
次にトレード・マークのヒゲであるが、私は濃いめの口ヒゲをきわめて細く刈りこんでいる。したがって寝起きのヒゲは毛虫である。
余談ではあるが、ハゲとヒゲとは不可分の関係にある。ナゼかと問われても困るが、ためしに町へ出て人々の顔を観察してみればよい。私見によればハゲの約半数はヒゲを生やしており、ヒゲのほとんどはハゲとは言わぬまでも、少くともその予兆がある。
かくいう私も、髪が薄くなり始めたとたん迷わずヒゲを生やした。またまたナゼかと問われても困るのであるが、積極的解釈をするなら「ハゲの美意識」である。あるいは「毛」に対する郷愁、という消極的解釈もありうる。
で、起き抜けの私の顔は、「毛虫の這(は)う火炎太鼓」ということになり、これがまた毎朝千変万化の意表をつく出来で、実におかしい。
失態に気づいた瞬間、最も見られたくない相手が目の前に
さて、通常私はこうした起き抜けの顔で何をするかというと、とりあえず大まかにヒゲを整え、頭髪にハンド・シャワーを浴びせかけてクセ抜きをし、愛犬パンチ君と散歩に出る。たとえ犬の散歩といえども、そのくらい見栄は張るのである。もちろん装いもそれなりに、たとえばポロシャツとジーンズ、スニーカーぐらいのなりはする。
ところが一昨日のこと、寝起きでリビングに行くと「おはようナイスディ」にてめえが出演していた。しかもほんのちょっと映るのかと思って見ていたら、えんえん20分もの大編集をして下さり、しまいには雪国のイメージ・フィルムつきで拙著『鉄道員(ぽっぽや)』の朗読までして下さるという念の入れよう、有難さに思わず涙して、かなた東方のお台場に向かって深々と頭を垂れたほどであった。
それがまずかった。何となく感動さめやらぬまま、寝起きのなりでパンチ君の散歩に出てしまったのである。
私の場合、深い感動は必ず深い自省と思惟を喚起する。で、自分がどのような顔で歩いているかなどまったく気付かず、ダメ押しの販促についてとか、印税の勘定とか、来期の予定納税のこととか、ネクスト・ワンの小説のプロットとかをかなり真剣に考えていた。なにしろ思惟と自省のあまり、パンチ君がどこでクソを垂れたのかも気付かぬほどであった。
みちみち行き合ったご近所の奥様がハッとした顔をしたが、私は意に介さずいつも通りの如才ない挨拶をした。彼女がはたして「おはようナイスディ」を見ていたかどうかは知らぬが、それとは関係あるまい。毛虫をくわえた火炎太鼓が犬を連れて歩いていれば、誰だって愕(おどろ)く。
私がおのれの失態にようやく気付いたのは、住宅地をいいかげん歩き回った末であった。どうやらテレビを見たらしいお年寄にしみじみと、「お疲れのようですなあ」と言われたのである。
そこで初めて我に返った。頭髪は歩く護摩壇であった。鼻の下の毛虫は上唇にまで垂れ下がっており、そしてあろうことかボロ雑巾のごとき甚兵衛を着、素足にぺらぺらの雪駄をつっかけていた。
ミエっぱりの私は青ざめた。とりあえず犬とともに走った。主人のなりがよければ犬まで器量よしに見えるのだが、こっちが護摩壇では心なしか犬もみすぼらしく見えるのであった。
自宅ちかくの公園のほとりまできて、愕然と立ちすくんだ。息せききって人目を逃れようとする私の目の前にタクシーが止まり、いきなり担当編集者のF社H女史が降り立ったのである。
最悪の事態であった。相手は最も見栄を張らねばならぬ文芸編集者。しかも彼女は「著者初の恋愛小説」を、うっとりと作って下さった人物であった。私は彼女の前ではこの3年余りも完璧な見栄を張り続けてきたのである。
「見たな」
と私は言った。一瞬、脳裏を殺意がよぎった。
「は……なにを……ですか?」
と、女史はそらとぼけた。しかし明らかにその表情は、見てはならぬものを見てしまったという当惑に満ちていた。
「たのむ。このことは決して口外しないでほしい」
「何のことでしょうか……」
「君の誠実さにはつねづね感謝している」
「ですから、何のこと?」
「たのむ。見なかったことにしてくれ」
「はあ……」
こういう次第であるから、もちろん会話はそれきり終わった。帰宅したのち、私は身じたくを整え、素知らぬ顔で彼女と打ち合わせをした。
その後、女史が私の正体を誰かにバラしたかどうかは知らない。しかし、もし何ら気に止めてもいなかったら―—この想像はもっと怖ろしい。
(初出/週刊現代1997年9月27日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。