浅田次郎の名エッセイ

「マゾ説」に反発していた浅田次郎だったが……己を疑ってしまった“とあるマッサージ”の体験

私は、その間明らかに苦痛に倍する快楽を味わっていた わが家のごく近所に突如として天然温泉が噴出し、巨大健康ランドが出現したという話は以前にも書いた。サウナ、プール、アスレチック等を完備し、きょうび流行のカラオケ付き宴会場…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第135回は、「被虐的快感について」。

でも、もしかしたら俺はマゾではないか

業界に「浅田次郎マゾ説」なるものがあると聞きおよび、愕然とした。

心外である。私がマゾならば二宮金次郎だってマゾだ。非才と無学と貧困とをひたすら努力によって補いつつ46年、税金をしこたま課せられたうえにマゾよばわりされたのでは立つ瀬がない。

ところで、さらなる誤解を覚悟の上で言っておくが、私は「マゾ」の語源であるところのザッヘル・マゾッホの小説は好きである。代表作『毛皮を着たビーナス』など、ちかごろ評判のバイアグラなんてくそくらえの完全勃起小説と言えよう。なにせ恋人をギリシア系美男に奪われてしまった男が、その二人に下僕として仕え、苦痛の中に快楽を見いだすという、ぶっちぎりの性愛小説なのである。

マゾッホは実生活においても、妻に姦通を強要するという徹底ぶりで、ためにマルキ・ド・サドのサディズムと並び称される性倒錯の代名詞となった。

もっともマゾッホにとって気の毒なのは、のちのフロイトとその学派がさかんにこの心理を研究したがために、「マゾヒズム」「マゾヒスト」といった言葉が世の中を独り歩きしてしまったことであろう。今日、「マゾ」は誰でも知っているが、天才作家ザッヘル・マゾッホの名は、誰も知らない。

さて、巷間(こうかん)囁(ささや)かれるおのれのマゾ説を憤りつつも案外と素直な性格で反省癖のある私は、もしかしたら俺はマゾではないかと疑ったのであった。

かつてマゾッホの小説を読み、完全勃起をしたのは事実なのであるから、そのケがあるかどうかはともかく、気持ちはわかるのである。理解はできるのである。ただい私自身の名誉のために言っておくと、今までの人生経験上、殴られて気持ちがいいと思ったためしは一度もない。反省とともに報復もちゃんとするタイプで、その目安も「倍返し」と決めている。

しかし、いわゆる被虐の快感なるものは否定しない。たとえば徹夜で原稿を書き上げ、フラフラで声も出せぬままようやく床に就こうとしたとたん、不吉なピー音とともに緊急のゲラが飛来する。こういうとき、怒りや絶望感とはべつに、そこはかとないふしぎな快感を覚えるのである。

この感じを言葉にするのは難しいが、一言で言うなら、「もうどうにでもして。あなたの好きなようにして」というところであろうか。抵抗も報復もできぬと悟ったとたん、あえて苦痛に身を委(ゆだ)ねる快感が襲ってくる。

やはり俺はマゾなのであろうか、と懊悩しつつ言ったサウナ風呂で、私はひどい目にあった。

心身ともにコリ性である私は、しばしばマッサージ師のお世話になる。自宅には松下電工が世界に誇る最新鋭機「モミモミ・アーバンリラックスEP596」を始めとする、各種マッサージ機器を保有し、なおかつ週に2、3度は欠かさぬサウナ浴の後には、必ず50分間の指圧を受けている。

かように揉まれ慣れている私に取って、ヘタクソなマッサージほど頭にくるものはない。なにしろわが愛機「モミモミ・アーバンリラックスEP596」は、最大揉み速度毎分37回、最大たたき速度毎分700回、しかも12センチの距離で自動反復というスグレモノなのである。

要するに、そんな私にとってはほとんどのマッサージが生ぬるい。効かないのである。で、毎度「もっと強く!」と注文をつけ、マッサージ師に嫌われる。

私は、その間明らかに苦痛に倍する快楽を味わっていた

わが家のごく近所に突如として天然温泉が噴出し、巨大健康ランドが出現したという話は以前にも書いた。サウナ、プール、アスレチック等を完備し、きょうび流行のカラオケ付き宴会場などはなく、ひたすら健康管理を目的としたコンセプトは私の趣味に適(かな)う。むろんマッサージ師は名手が揃っている。

ただひとつ難を言えば、ここのマッサージ師は上手なのでいつも混雑しており、マッサージ師の指名ができない。したがって、より強力なマッサージを希望する私は、その日のお相手に一喜一憂する。

朝っぱらから出かけるのは初めてであった。おそらくマッサージ師にも早番とか遅番とかいうローテーションがあるだろうから、され朝っぱらにはどのような先生がいるのであろうと、私の胸はときめいた。

ひと風呂あびてから、いざマッサージ室へ。おちしも「浅田マゾ説」の風評に傷つき、徹夜で懊悩していた私の体は、大理石の彫像のごとくコッていた。

待ち受けていたマッサージ師と対面した私は、思わず「おお」と快哉の声を上げた。屈強な若者である。白衣に包まれた体はシスティナ礼拝堂の「最後の審判」にあるイエス・キリストの雄渾な体を想像させ、色黒の顔は東大寺三月堂の「金剛力士像」を彷彿とさせた。

一瞬、目が合った。男の表情は「揉みほぐさねば帰さじ」と気魄に満ちており、むろん私も、「揉みほぐさねば帰らじ」とばかりに睨みつけた。

マッサージ台にうつぶせたとたん、男は低い声で言った。

「特別コッているところは」

私はすかさず要望するツボを答えた。

「足の三里、腎兪(じんゆ)、および風門。強めにね」

背中をさすっていた男の手がフト止まった。

「……わかりました」

言うが早いか、男は私の背骨の両側をグイと圧(お)した。

それは私がかつて経験したことのない強さであった。

「強さは?」

「け、けっこう。それでいい」

「大丈夫ですか。すごくコッていますけど」

「大丈夫。ああっ!」

男の指は腰痛のツボである「腎兪」にピタリと決まった。腎兪を揉まれているのではなく、腎臓を握られたような気がした。

「痛くないですか?」

痛い。ものすごく痛い。痛すぎて「痛い」という言葉が声にならず、私はただ「ああっ」とか、「ううっ」とかいうア行五音を唸り続けただけであった。

痛い。だが気持ちいい。やめてくれという願いと、もっと続けて欲しいという欲望が相なかばし、私は底知れぬ快楽と苦痛にあえぎ続けた。

やがて男の両指は、ちかごろコリにコッている大臀筋のツボをブスリと捉えた。

「ここは?」

「そ、そこ。そこ」

「ちょっとガマンして下さいね。じきに楽になりますから」

「どうにでもして……あっ、ああっ!」

大臀筋と坐骨の周辺を念入りに揉みほぐしたのち、男の指は的確に足の三里、すなわち脛のツボを押さえた。

「強いですか?」

「いいっ、いいっ!」

この「いい」の意味は難しい。「もういい」と「気持ちいい」の二つが、ふしぎな同義語となって口から出たのであった。

「ほかには?」

「もう好きなようにしてっ!」

50分にわたって続いた苦痛が、性的な快楽を伴っていたとは思いたくない。だが私は。その間明らかに苦痛に倍する快楽を味わっていた。

男はツボを捉える前に、その位置を探すような手付きで肌をさする。それから一呼吸を置いて、正確にブスリとくる。その間合いがたまらなかった。思えば、苦痛を期待するその間合いは、苦痛そのものに倍する快楽であった。

マッサージが終わったあと、しばたく横座りになったまま動けなかった。無抵抗のまま苦痛を耐えた経験はかつてなかった。痛みを与えられたときには、常に倍返しの報復をしてきたはずであるのに、恨みどころかこの充実感はどうしたことであろう。やっぱり俺はマゾであったか、とおもった。

ところで、以後三日目にあたる今、鉄板を背負ったようなひどい張り返しに悩んでいる。遅ればせながらこの恨み、いかに晴らすべきか。

断じて言う。私はマゾではない。

(初出/週刊現代1998年8月8日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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