関ヶ原の戦いで生駒正親はなぜ高野山に入ったのか 69歳で讃岐国を与えられ、四国一の高松城を築いたベテラン武将

高松城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

「三中老」の一人に ご承知のように秀吉の家臣団は、決して一枚岩ではありませんでした。加藤清正や福島正則といった武断派と、石田三成や長束正家のような文治派とが鋭く対立していました。秀吉は両者のバランスをとりながら天下統一を…

画像ギャラリー

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、真田信之と松代(まつしろ)城(長野市)です。

高松城は日本一の海城

高松城の古い写真が残っています。明治時代に撮られたもので、今では見ることのできない天守を見ることができます。天守は老朽化によって明治17(1884)年に取り壊されてしまいますが、その規模は三重四階地下一階で、松山城や高知城を凌ぐ、四国一の大きさでした。

また、高松城は日本一の海城でもありました。城壁が直接瀬戸内海に面し、海に浮かぶさまは偉容を誇っていたはずです。堀に海水を引き入れ、軍船が城に入ることで、戦略上の拠点とすることもできました。

海に向かって開く水手御門(みずのてごもん)があり、藩主はここから参勤交代に出かけたといいます。月見櫓は、行き来する船を監視するためのもので、着見櫓とも呼ばれました。この、ユニークで見所の多い高松城は、生駒親正が築城し、水戸光圀の兄・松平頼重が改築したものです。

高松城の月見櫓と報時鐘 Photo by Adobe Stock

織田信長の「天下布武」のあと配下に

生駒親正は美濃の豪族の出身でしたが、織田信長が岐阜城に拠点を移し、「天下布武」を唱えた頃、その配下となりました。親正はすでに40歳前後でしたが、そこから78歳で亡くなるまで、地道に誠意をもって仕事をし続けます。

勇名を馳せたのが、信長が朝倉義景を攻めた際、同盟関係にあった浅井長政に裏切られ、決死の覚悟で撤退した金ヶ崎の戦いでした。親正は、殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉について奮戦、信長は京に逃げ延びることができました。

その後、長篠の戦いや石山本願寺攻めにも参加し、信長が本能寺で横死してからは、秀吉の家臣となります。中国攻めや山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役と、常に秀吉のもとでミスのない仕事ぶりを見せます。文禄の役では、66歳で渡海して戦陣に加わっていますから、それだけ頼りにされていたということでしょう。

高松城 hoto by Adobe Stock

「三中老」の一人に

ご承知のように秀吉の家臣団は、決して一枚岩ではありませんでした。加藤清正や福島正則といった武断派と、石田三成や長束正家のような文治派とが鋭く対立していました。秀吉は両者のバランスをとりながら天下統一を進めました。

秀吉にとって生駒親正は手堅い仕事人であり、かつ武断派と文治派双方のコミュニケーションをとれる、貴重な人材だったのではないでしょうか。

結果、生駒親正は、堀尾吉晴や中村一氏とともに三中老に任じられます。三中老という制度はなかったいう指摘もありますが、五大老と五奉行を取り持つバランサーとして機能したのではないかと想像します。

高松城の月見櫓 Photo by Adobe Stock

69歳で讃岐の一国を与えられた

秀吉が天下を取った後、文禄4(1595)年、親正は讃岐国17万8000石を与えられ、69歳にして悠々自適の毎日を送るかに見えました。しかし、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなると、天下は一気に流動化し、慶長5(1600)年、関ヶ原で東西両軍が激突します。

多くの豊臣恩顧の大名がそうだったように、親正も大いに悩みます。そして、自身は石田三成方の西軍に、息子の一正は家康方の東軍に味方させます。真田父子のとった選択と同様、どちらが勝っても生駒家は残るという読みでした。西軍についたとはいえ、親正自身は戦闘に参加せず、剃髪して高野山に入っています。

戦後は、親正の深謀遠慮が実るかたちで、息子の一正は讃岐一国を安堵され、その後親正も許されて高松に戻っています。

高松城の鞘橋と内堀Photo by Adobe Stock

お家騒動で生駒家は改易

親正が高松城で亡くなるのは、慶長8(1603)年のことでした。享年78。派手さはないものの、その誠実な仕事ぶりで名を残しました。

親正が苦労して得た讃岐一国でしたが、寛永17(1640)年、生駒家4代目高俊の時に、生駒家は改易になってしまいます。親正が藩主であれば、有りえなかったお家騒動でした。その後、高松藩は天領となり、松平頼重が治めます。

高松城の艮櫓(うしとらやぐら、旧太鼓櫓跡) Photo by Adobe Stock

【高松城】(別名・玉藻城、たまもじょう)
天正16(1588)年、豊臣秀吉から讃岐一国17万石を与えられた生駒親正が瀬戸内海に面した玉藻の浦に築城。海水を取り入れた本格的な海城で島のように浮かぶ本丸を持っていた。天守は天守台よりも張り出した唐造(からづくり)で、生駒氏に代わってこの地を治めた松平頼重の改修によって生まれたもの。松平頼重は水戸黄門こと徳川光圀の兄。現在、天守はなく、月見櫓が残る。史跡高松城跡高松市立玉藻公園として整備されている。
住所:香川県高松市玉藻町2-1
玉藻公園入園料:大人200円、小人100円(6歳以上16歳未満)
入園時間:日の出~日没(西門)
電話:087-851-1521(玉藻公園管理事務所)

高松城の桜御門 Photo by Adobe Stock

【生駒親正】
いこま・ちかまさ。1526~1603年。美濃の国に生まれる。織田信長に仕え、秀吉付けの武将となり、軍功を上げる。1592年の文禄の役(第一次朝鮮出兵)にも66歳の高齢ながら、渡海するなど頼れるベテラン武将として秀吉の信頼を得て、讃岐国17万8000石を与えられたほか、三中老に抜擢される。関ヶ原の戦いでは西軍につくも息子の一正を東軍につけたことで所領は安堵された。

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

画像ギャラリー

この記事のライター

関連記事

家康は、切腹と決まった真田昌幸・幸村親子の助命をどう聞いたか 93歳の天寿を全うした真田信之、松代城はかつて武田信玄も拠点にした

さかもと未明さんの命を繋いだパリの歴史的名店 モンマルトルの丘で出会った「命の水」とは?

特別企画展がスタート!発禁処分を受けた児童文学作家・椋鳩十の作品と生きざま

家康の約束違反が明治維新に繋がったか 120万石から37万石に大減封、萩城に移った毛利輝元は何を思ったか

おすすめ記事

関ヶ原の戦いで生駒正親はなぜ高野山に入ったのか 69歳で讃岐国を与えられ、四国一の高松城を築いたベテラン武将

竹内まりやの中で聴くべきアルバムは? 10年ぶりのオリジナルアルバム、11年ぶりのツアーとスポットライトを浴び続けるシンガー・ソングライター【休日に聴きたい名盤】

東京、三ツ星ホテルの「究極のラーメン」ベスト2店…スープ濃厚「ホタテ・エビ」どっさりで、一杯《2640円》でも高コスパ「覆面調査隊」が発見

【10月5日】今日は何の日?前人未到の偉業を日本人が果たした! 

「皇室と沼津」 明治の皇后が愛したタケノコ狩りと料理、元皇室記者が訪ねた

大の風呂好きで一流“サウニスト”の浅田次郎が、自宅至近の豪華天然温泉で演じた大失態

最新刊

「おとなの週末」2024年10月号は9月13日発売!大特集は「ちょうどいい和の店」

全店実食調査でお届けするグルメ情報誌「おとなの週末」。9月13日発売の10月号は「ちょうどいい和の店…