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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、真田信之と松代(まつしろ)城(長野市)です。

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高松城は日本一の海城

高松城の古い写真が残っています。明治時代に撮られたもので、今では見ることのできない天守を見ることができます。天守は老朽化によって明治17(1884)年に取り壊されてしまいますが、その規模は三重四階地下一階で、松山城や高知城を凌ぐ、四国一の大きさでした。

また、高松城は日本一の海城でもありました。城壁が直接瀬戸内海に面し、海に浮かぶさまは偉容を誇っていたはずです。堀に海水を引き入れ、軍船が城に入ることで、戦略上の拠点とすることもできました。

海に向かって開く水手御門(みずのてごもん)があり、藩主はここから参勤交代に出かけたといいます。月見櫓は、行き来する船を監視するためのもので、着見櫓とも呼ばれました。この、ユニークで見所の多い高松城は、生駒親正が築城し、水戸光圀の兄・松平頼重が改築したものです。

高松城の月見櫓と報時鐘 Photo by Adobe Stock

織田信長の「天下布武」のあと配下に

生駒親正は美濃の豪族の出身でしたが、織田信長が岐阜城に拠点を移し、「天下布武」を唱えた頃、その配下となりました。親正はすでに40歳前後でしたが、そこから78歳で亡くなるまで、地道に誠意をもって仕事をし続けます。

勇名を馳せたのが、信長が朝倉義景を攻めた際、同盟関係にあった浅井長政に裏切られ、決死の覚悟で撤退した金ヶ崎の戦いでした。親正は、殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉について奮戦、信長は京に逃げ延びることができました。

その後、長篠の戦いや石山本願寺攻めにも参加し、信長が本能寺で横死してからは、秀吉の家臣となります。中国攻めや山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役と、常に秀吉のもとでミスのない仕事ぶりを見せます。文禄の役では、66歳で渡海して戦陣に加わっていますから、それだけ頼りにされていたということでしょう。

高松城 hoto by Adobe Stock
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松平定知
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