『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、秋田の久保田城です。
佐竹氏は源氏の嫡流
関ヶ原の戦いは多くの武将の運命を変えましたが、今回紹介する佐竹義宣もそのひとりです。佐竹氏は源氏の嫡流にあたり、18代目の父・佐竹義重は戦上手で常陸国(茨城県)をほぼ手中にするほど勢力を伸ばします。
父の隠居に伴い家督を継いだのが義宣です。当時の北関東は北から伊達氏、南から北条氏が迫っていました。生き残りをかけ佐竹氏は近隣の結城氏や宇都宮氏と同盟し、豊臣秀吉に近づき、石田三成や上杉景勝とも親交を結んでいきます。
そして、天正18(1590)年小田原征伐の際には、いち早く参陣したことで、常陸国に加え、下野国(栃木県)の一部あわせて54万石を与えられます。これは400あまりの全国の諸大名のうち、第8位の石高でした。義宣26歳の時です。
石田三成を救出、警護
慶長3(1598)年、秀吉が亡くなり、翌年前田利家も死去すると、豊臣政権内での武断派と文治派の対立が激しくなります。そして武断派の加藤清正や福島正則ら7人の武将が石田三成を襲撃しようとする事件が起こります。
いち早くこの情報をキャッチし、三成を救出して徳川家康のいる伏見城へと警護したのが義宣です。義宣は伊達政宗との対立の際、三成を通じて秀吉に助けを求めたことがあり、三成に恩義を感じていたのです。
仲裁に乗り出した家康は三成に五奉行からの引退を承諾させ、さらに三成を挑発するかのような専横な振る舞いをし始めます。三成がそんな家康に我慢ならないと立ち上がったのが関ヶ原の戦いです。