領国没収を言い渡されたが、秋田へ国替え「秋田美人」にまつわる俗説
関ヶ原の戦いの発端は会津征伐と見るムキもあります。上杉景勝の軍事力増強への動きに憤った家康が上杉打倒に立ち上がったのが会津征伐ですが、これは三成を挑発するための家康の高等戦術だったと私は思います。義宣は上杉景勝の味方になり、兵を出したかったのですが、父義重の制止で態度をはっきりさせず中立の立場をとります。
そうこうしている間に西の関ヶ原の戦いで三成方は敗北。家康に味方しなかった義宣は謀反人三成と共謀していたとされ、領国没収を言い渡されます。しかし、父である義重が伏見城の家康を訪ね、必死に家名存続を嘆願したおかげで20万石と大幅な減封となりながら、出羽国(秋田県)への国替えを命じられ、佐竹氏は存続することになりました。
この際に美人を根こそぎ常陸から出羽へ連れて行ったことが秋田美人を生んだという俗説がありますが、茨城の方たちにはずいぶんと失礼な話です。
秋田に武家文化が根付いた
歴史にifは禁物ですが、もし佐竹氏が西軍につき、上杉・佐竹連合軍ができていたなら、関ヶ原の合戦はなく、栃木県の大田原か那須あたりで、数カ月にわたる大合戦が行われたかもしれません。常陸から出羽へ移る際、義宣の胸にどんな想いが去来したか、想像するほかありませんが、勇名を馳せた佐竹の名において「一戦まみえたかった」というのが正直な気持ちだったのではないでしょうか。
さて、国替えと減封は佐竹氏にとっては悲劇でしたが、名門佐竹氏が来たことで、秋田の地は武家文化が根付き、角館など美しい町並みを残してくれることになったのです。
【久保田城】
関ヶ原の戦いの後、転封となった佐竹義宣が慶長9(1604)年に築城。徳川家に気を遣って天守がないほか、佐竹氏が土塁普請に長けたことから石垣もないのが特徴。秋田市制100年の際に作られた御隅櫓(おすみやぐら)は三重四階だが、本来は二重櫓である。
御隅櫓観覧料:一般150円(※高校生以下は無料)
開館時間:9時~16時30分(※市立小中学校の夏季休業日は、午前9時から午後7時まで)
休館日:12月1日から翌年の3月31日まで
住所:秋田市千秋(せんしゅう)公園1ー39
電話:018-863-0770(佐竹資料館)
■本丸表門
本丸にある正門は木造2階建てで、平成13(2001)年に復元されたものだ。佐竹義宣が生まれた。
■太田城跡
現在の茨城県常陸太田市にあった太田城は佐竹城、舞鶴城とも呼ばれ、関東七名城に数えられた。
【佐竹義宣】
さたけ・よしのぶ。1570~1633年。清和源氏・新羅三郎義光を祖とする関東の名門佐竹氏の第19代当主。北に伊達氏、南に北条氏と強力なライバルがあるなか、豊臣秀吉に臣従し、常陸国と下野国の一部約54万石を領土とした。しかし、関ヶ原の戦いで自身が西軍につこうとしたところ父・佐竹義重の反対もあって自重。いずれにせよ徳川に味方しなかったために、家康から久保田(秋田)20万石への転封を命じられた。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」