『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、福井城です。
かつては「北ノ庄城」「福井城」になった背景は
福井城はかつて北ノ庄城と呼ばれていた頃、柴田勝家が築城し、織田信長の安土城を凌ぐ天守を持っていたといわれています。柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れて北ノ庄城は落城、炎上します。その後慶長5(1600)年、徳川家康の次男・結城秀康が67万石でこの地に封ぜられ、1601年からは天下普請によって、新たに四層五階の天守を持つ新城が完成します。当時の文献によれば、日本海側では金沢城を凌ぐ壮大な石垣を持っていたとされます。
北ノ庄が福井に変わるのは諸説ありますが、そのなかには3代藩主・松平忠昌の時代、「北」の字は敗「北」につながり、縁起が悪いとされ、城内にあった「福の井」という井戸からとって、現在の「福井」になったという説もあります。
3歳まで対面が許されなかった
徳川の親藩のなかでも、特に家康と血筋の近い大名家を、御家門(ごかもん)と呼びます。越前松平家、会津松平家、奥平松平家などがそれで、御三家に次ぐ将軍家の一門という扱いでした。越前松平家は結城秀康が初代となり、現在も第20代当主がいらっしゃいますが、秀康自身の生涯は、必ずしも幸せではありませんでした。
結城秀康は徳川家康の次男として天正2(1574)年に浜松で誕生します。幼名は於義丸(おぎまる)といいました。母親は家康の正室・築山殿の奥女中で、後に側室となった於万(おまん)の方で、身分が低いという理由で家康から疎まれ、満3歳までは対面が許されなかったといわれます。
人質となったが、秀吉にかわいがられ
天正7(1579)年、武田勝頼と内通を疑われた長男信康が織田信長から切腹を命ぜられ、於義丸は後継者と目されます。しかし、家康から嫌われていたせいもあったのか、小牧長久手の戦いが起きた際は、秀吉のもとに人質として送られてしまいます。子のなかった秀吉は於義丸をたいへんかわいがって養子とし、自分と家康の名を取って秀康という名を与えたのです。
秀康も秀吉にたいへんなついたとされますが、秀吉と淀殿の間に鶴松(秀頼の兄)が生まれると、秀吉は秀康を羽柴の家から出してしまいます。秀康は下総の名家・結城家の婿養子となり、家督を継いで11万1000石の大名となります。その後、関ヶ原の戦いでは上杉軍を牽制する役を務め、松平の姓も与えられ、越前北ノ庄67万石を与えられ、越前松平家の祖となったのです。