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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、蒲生氏郷と松坂城です。

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松坂や会津若松の町作りを進めた戦国武将「この子は百万石の武将になる」

蒲生氏郷は織田信長、豊臣秀吉に仕えた戦国武将で、キリシタン大名でもあります。松阪や黒川(会津若松)の町作りを進めた人物と知られ、茶の湯や和歌にも造詣が深い、文武に優れた人物だったようです。

エピソードも数多く、鶴千代の名で呼ばれた幼少の頃、信長のもとに人質として送られていた時の話を紹介しましょう。信長のもとには、鶴千代同様に人質として暮らす子どもが多数いました。信長が歴戦の雄である稲葉一鉄に合戦話をさせていた時のことです。

信長と一鉄の話が深夜におよぶと、ほかの子どもが眠ってしまうなか、鶴千代だけは目をバッチリ開けて最後まで聞いていました。これを見て信長と一鉄は「この子は百万石の武将になる」と感服したといいます。

松坂城二ノ丸跡から望む御城番屋敷 Photo by Adobe Stock

14歳で初陣、信長の英才教育

聡明な鶴千代は信長に愛されました。信長は次女を与えて義理の息子とし、蒲生氏の本拠である近江・日野へ帰ることを許しています。信長は自ら烏帽子親となり、鶴千代は岐阜城で元服し、忠三郎賦秀(やすひで)と名乗り、14歳で初陣を飾っています。信長は英才教育を施しながら、主要な合戦に同行させています。

本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉に仕え、天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで殿軍を務めるなどの功績で伊勢松ヶ島12万石を与えられ、羽柴姓も許されています。後に松坂城を築いて住人を松ヶ島から移転させ、城下町も整備しました。またこの時期に洗礼を受けてレオンの名前を与えられ、キリシタン大名になっています。

松坂城の石垣 Photo by Adobe Stock

「たとえ大領であっても、ここにいては天下は取れない」

天下統一を目指して驀進する豊臣秀吉は、天正18(1590)年、奥州を平定します。氏郷は伊達政宗への抑えとして会津42万石、後に92万石を与えられます。彼はその中心地・黒川を若松と改めたうえで、望楼型七重の天守を持つ鶴ヶ城を築き、城下町を整備します。こうして会津若松の町の基礎を作ったとされる氏郷ですが、秀吉から転封を命じられた際には涙を流したといわれています。

「たとえ大領であっても、ここにいては天下は取れない。都に近ければ天下をうかがいえたのだが」

本人としては、伊勢松坂から会津への転封で、自らの天下への夢が絶たれたと、痛恨の思いだったのでしょう。

松坂城 Photo by Adobe Stock
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