「できる」上司、関ケ原の戦いまで生きていたら…
実際のところ秀吉は、武芸・教養に秀で、リーダーシップもある氏郷を警戒していた節があります。「氏郷を上方においてはおけない。我々が危ないからだ。だから奥州に封じるのだ」と語ったといわれます。
たしかに、蒲生氏郷は「できる」上司でした。手柄を立てた家臣がいると自分の屋敷に呼び、風呂とご馳走でもてなしたそうです。当時風呂はたいへん贅沢なもので、氏郷自身が薪をくべて沸かしたといいます。風呂に入った家臣が、次の合戦でさらなる奮闘を見せたことはいうまでもありません。
40歳の若さでなくなった蒲生氏郷が、せめてあと5年、関ヶ原の戦いまで存命だったら、はたして徳川時代を迎えていたかどうかと考える人は少なくありません。氏郷は信長の娘婿という立場もありましたし、天下を狙う器量を持っていたことは確かでしょう。
【松坂城】
信長の娘婿である蒲生氏郷は築城の名手と謳われ、天正16(1588)年、安土城とよく似た縄張りと建造物を持ち、三重五階の天守があったという。城下町には信長を倣って楽市楽座を設けるなどしたため、伊勢商人の本拠地として発展した。残念ながら現在残るのは石垣のみ。その見事な石垣は氏郷の出身地でもある近江国の石工集団、穴太衆によるもの。日本百名城に選定されている。
住所:三重県松阪市殿町
■御城番屋敷
松坂城三の丸に文久3(1863)年にでき、紀州藩士が松阪城警護のために移り住んだ長屋構造の武家屋敷。国の重要文化財に指定されている。
開館時間:10~16時
休館日:月曜
入館料:無料
住所:三重県松阪市殿町1385
【蒲生氏郷】
がもう・うじさと。1556~1595年。南近江の守護大名・六角義賢(ろっかく・よしたか)の重臣だった蒲生賢秀の三男に生まれ、幼い時に織田信長の元に人質として送られた。成長し、信長の信頼を得て信長の次女をめとる。天正13(1585)年、洗礼名レオンを受けキリシタン大名となる。本能寺の変で信長が自刃すると秀吉に従い、奥州仕置きの中心として伊達政宗を牽制し、陸奥92万石を手にした。現在の会津若松の町の基礎を作るも、40歳で病没した。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」