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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、仙石秀久と小諸城です。

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武田信玄が重要性に注目

「小諸なる古城のほとり雲白く遊子(いうし)悲しむ」で始まる島崎藤村の『千曲川旅情の歌』は、小諸城をうたったものです。

小諸城の起源は古く、木曾義仲の武将・小室太郎光兼が、現在の小諸城の東に館を築いたことに始まるといわれます。小室氏は南北朝時代に衰退し、大井郷の大井氏が勃興、小諸と佐久地方を支配し、小諸城の前身、鍋蓋城を築きます。

その後戦乱の世となり、天文23(1554)年、甲斐の武田氏がこの地に侵攻し、鍋蓋城を落とし、武田氏が城代を務め、この地を支配します。武田信玄はこの地の重要性に注目し、重臣・山本勘助と馬場信房に命じ、新たに縄張りさせ、小諸城の原型ができあがります。

小諸城址の「二の丸跡」 Photo by Adobe Stock

石川五右衛門を伏見城で捕縛の伝説

小諸城を近代の城郭に整備し直したのは仙石秀久です。仙石秀久は大盗賊・石川五右衛門を伏見城で捕縛したという伝説が残る人物です。戦国時代にはドラマチックな生涯を送った武将が少なくありませんが、仙石秀久は失敗のたびに復活し、波瀾万丈の人生を送った人物としても知られます。

仙石氏は美濃の国の土豪の出で斎藤氏につきますが、織田信長が美濃に侵攻し斎藤氏を滅ぼして以降は、羽柴秀吉の麾下になります。貧困から身を起こした秀吉にとっては、最古参の家来のひとりでした。秀吉に従い、姉川の戦い、中国の毛利攻め、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、四国攻めと転戦します。四国の雄・長宗我部元親軍に挑んだ引田の戦いでは、奮戦するも敗れてしまいます。幟を奪われるという失態を犯したともいわれますが、そそっかしい性格だったのかもしれません。

その後、長宗我部氏は降伏し、四国は平定されます。そして、これまでの働きが評価され、秀久は讃岐一国の国持大名となります。秀久の身に暗雲が漂うのは、秀吉が島津氏を討つべく進出した天正14(1586)年、九州征伐の際です。当時、秀吉はライバル徳川家康と小牧・長久手の戦いの最中で、九州に行くことはできません。秀久は先陣役を命ぜられ、平定したばかりの四国勢の軍監として海を渡りました。

小諸城址の「三の門」入り口 Photo by Adobe Stock
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松平定知
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