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秀吉の九州征伐、始まる

ここで当時の九州の状況をざっと見ておきましょう。九州北部の筑前、豊後、豊前、肥前、筑前に大勢力を張っていた大友氏が、天正6(1578)年、日向で島津氏と激突、耳川の戦いで完敗したことで、勢力図が一変します。その間隙を突き勃興したのが龍造寺氏で、肥前、筑前、肥後などを大友氏から奪取します。

しかし、龍造寺氏に押さえ込まれていた有馬氏が龍造寺氏から離反したことで、元亀2(1571)年、沖田畷(おきたなわて)の戦いが起きます。肥前・島原で有馬・島津連合軍と龍造寺軍が戦ったこの戦いで、龍造寺側は大将である隆信が敗死するなど惨敗し、九州は島津氏にほぼ制圧される状況でした。こうした状況で、島津氏の圧迫を受けた大友宗麟こと義鎮(よししげ)が、秀吉に助けを求めたことで、秀吉の九州征伐が始まりました。

小諸城址の「三の門」の案内板Photo by Adobe Stock

功を焦って先走り、高野山に追放

当初秀吉は動けませんでしたから、仙石秀久が征伐軍を率いることになりました。主力は、四国征伐で制圧した長宗我部軍でした。負けた相手に使われての戦いですから、士気は上がりません。秀久は、秀吉から「本隊が到着するまで持久戦に持ち込め」と指示されていたにもかかわらず、功を焦って先走り、豊後の戸次川で待ち伏せ攻撃に遭って総崩れになってしまいます。しかも秀久は敗軍をまとめもせず、勝手に小倉に逃げ帰ってしまい、秀吉を激怒させます。この結果、所領を没収されて高野山に追放されました。秀久34歳の頃です。

秀久が許されるのは、天正18(1590)年の小田原攻めの際です。家康の推薦もあって、参戦を許されたと伝わります。そこで軍功を挙げた秀久は、信濃小諸に5万石を与えられ、大名に復活したのです。ススキの名所として知られる箱根の仙石原は、この時の秀久の活躍によって付けられたという説もあります。

大手門と三の門が国の重要文化財に指定

秀久が整備した小諸城は、千曲川の扇状地であることを利用して、幾重にも空堀を作って敵の攻めに備えました。城下町よりも低い地に城郭があるため、穴城とも呼ばれます。実際に歩いてみると、町から城にかけてどんどん標高が下っていることがわかります。大手門と三の門が現存し、これは国の重要文化材に指定されています。

三の門は懐古園の額があることで知られますが、これは徳川家16代当主の徳川家達(いえさと)の書によります。また三の門は渡櫓門といって、石垣と石垣の間を渡すように門の上に櫓が建てられることからこう呼ばれました。皇居の桜田門や大手門も同じかたちです。

小諸城に天守閣はありませんが、天守台はあります。また二の丸は、慶長5(1600)年に徳川秀忠が中山道経由で関ヶ原の合戦に向かう際、上田攻めの本陣を置いたところです。秀久は、「自分を人質とし、進軍してくだされ。それで東軍が勝てば本望」と言上し、秀忠もその忠節を喜んだと伝えられます。

小諸城址の「水の手展望台」からの景色 Photo by Adobe Stock
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松平定知
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