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悲運の武将、5人の息子は5つの松平家に

ようやく落ち着いた彼の人生は、慶長12(1607)年に病であっけなく終わってしまいます。彼自身は武勇に優れた人物だったようで、家康が重臣に後継者は誰かと問うたところ、多くのものが、秀忠よりも秀康を推したという記録が残っています。家康に疎まれたことや、一度秀吉の養子になったことが、彼の将軍への道を閉ざしたのかもしれません。

生前、悲運であった秀康ですが、5人の息子が津山松平家、福井松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家と5つの松平家を生み、その当主は現在も活躍されています。また16代福井藩主となった松平春嶽は英邁で知られ、西郷隆盛や坂本龍馬、勝海舟とも親交があり、幕末維新に功績を残しています。天国の秀康は、子孫の大活躍に満足しているのではないでしょうか。

福井城趾 Photo by Adobe Stock

【福井城】(別名・北ノ庄城)
もともとは天正3(1575)年、柴田勝家が自らの縄張りで北ノ庄城を築城開始。柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、妻、お市とともに自害し、城に火を放ち焼失した。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、結城秀康が再構築し、慶長11(1606)年、新たに北ノ庄城が完成。四層五階の天守閣があったとされるが焼失した。以後幕府の許可が下りず、天守は再建されなかった。福井城の屋根瓦は凍結防止のため特別な石瓦で作られ、ポルトガルの宣教師、フロイスが美しいと称えた記録が残る。現在は本丸跡に福井県庁と福井県議会議事堂が建つ。
住所:福井市大手3ー17ー1

福井城址 Photo by Adobe Stock

【結城秀康】
ゆうき・ひでやす。1574~1607年。徳川家康の次男で、長男の信康が織田信長に切腹させられたため、家督を継ぐ有力候補だったが、母親の身分が低かったこともあって家康から疎まれ、小牧・長久手の戦いの後、秀吉の人質となり、羽柴姓を賜る。秀康の秀は秀吉、康は家康から一字ずつ取ったものだ。秀吉に実子ができたため結城氏を継ぐ。関ヶ原の合戦では上杉を牽制する役を全うし、越前北の庄67万石に封ぜられ、後に松平姓を名乗ることを許される。秀康の子孫により津山、福井、松江、前橋、明石という5つの松平家が誕生した。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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