『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
豊臣秀吉の“隠居城”
室町時代と徳川時代の間を安土桃山時代といいます。これは安土に本拠地を置いた信長と、伏見城が居城だった秀吉が政治の中心だった時代をいいますが、なぜ桃山かといえば、江戸時代伏見城跡に桃が植えられ、当地を桃山と読んだことにちなんでいます。
伏見城は文禄元(1592)年、秀吉が隠居城として建設を始めました。当時はこのあたりは観月の名所として知られ、指月と呼ばれていました。当初秀吉は屋敷のようなものを作ろうとしていたようですが、文禄2(1593)年に秀頼が生まれたため、大坂城を譲ることにしました。それにともなって伏見城は大改築が行われ、文禄5(1596)年に完成します。こちらは伏見指月(しげつ)城と呼ばれます。
慶長の大地震で倒壊
しかしその直後、慶長の大地震で天守など多くが倒壊してしまいます。推定されるマグニチュードは7・5。死者は城内だけで数百名、東寺や天竜寺も倒壊し、死者は合計1000名近かったという記述もあります。
秀吉は、天正13(1586)年に起きた天正大地震を経験していることから、伏見城築城にあたっては、「なまつ大事」と指示を出しています。「なまつ」はナマズのことで、地震対策しろよという意味です。これが、地震とナマズを結びつけた最古の記述といわれます。
また、このときの有名なエピソードで、歌舞伎にもなった『地震加藤』があります。加藤清正は朝鮮出兵で活躍しますが、石田三成の讒言(ざんげん)から秀吉の不興を買い、閉門中の身でありました。そんな身を顧みることなく伏見城に駆けつけ、おぶって秀吉を救出し、秀吉の許しを得たという話です。実話ではないとされますが、加藤清正らしい逸話として現在に伝わっています。
新たに築城「木幡山伏見城」
地震の後、伏見城は、現在明治天皇陵がある木幡山(こはたやま)に新たに築城されます。慶長2(1597)年に完成したこちらの城は、木幡山伏見城と呼ばれます。伏見指月城からはもちろん、聚楽第(じゅらくだい)や秀吉の側室・茶々に産所として与えた淀城から、天守や櫓が移築されました。
外周をぐるりと石垣で囲んだ惣構(そうがまえ)の本格的な城で、豪壮な石垣に加えて茶亭や秀吉の邸宅があったとされ、伏見は大いに栄えます。