『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
琵琶湖畔の彦根山に築城
彦根城は、徳川四天王と呼ばれ、家康の天下取りを支えた井伊直政の嫡男・直継が、琵琶湖畔の彦根山に慶長9(1604)年に築いたことに始まります。天下普請のかたちをとり、尾張藩や越前藩など12の大名に、家康が作らせたものです。
彦根城のある彦根山は金亀山とも呼ばれるので、別名金亀城(こんきじょう)の名もあります。古来、中山道と北国街道が交わる戦略的な重要拠点であり、壬申の乱や姉川の戦い、賤ヶ岳の戦い、そして関ヶ原の戦いと、すべてこの近隣で起こっています。彦根城は、家康が名古屋城とともに西国の抑えとして重要視していたことは間違いないでしょう。
家康直属の精鋭部隊「井伊の赤備え」
井伊直政の軍勢は、家康直属の勇猛な精鋭部隊でした。「井伊の赤備え」といわれるように、具足や旗指物など武具一式を朱色で統一していました。これは武田の赤備えが元祖で、武田氏滅亡の際に多くの遺臣を家康が引き取り、井伊直政に与えたことが始まりです。井伊直政軍は、家康が豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦いで先峰を務め、「井伊の赤鬼」として高名を轟かせます。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、東軍の先鋒に決まっていた福島正則を差し置いて、直政が抜け駆けをするなど、勇猛ぶりを発揮しますが、敵の銃弾を右腕に受け落馬、大けがを負います。奮闘の功績は家康に認められ、石田三成の所領だった近江国佐和山18万石を与えられましたが、関ヶ原で受けた傷がもとで、慶長7(1602)年に亡くなります。