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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

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桜が美しい弘前城、現存12天守のうち東北で唯一

桜が美しいことで知られる弘前城は現存12天守のうち、日本列島で最も北にあり東北で唯一のものです。この天守は文化7(1810)年に再建されたものです。寛永4(1627)年に落雷で焼失して以来、天守再建は弘前藩の願いでしたが、幕府の目を気にして櫓を改築するという名目で建てられました。

弘前城 hallucion_7@Adobe Stock

南部と津軽は犬猿の仲

ところで、南部と津軽は犬猿の仲といわれます。よく理由として挙げられるのが、戊辰戦争の際の遺恨です。津軽藩も南部藩も奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍に抵抗しましたが、津軽藩はいち早く恭順し、南部藩に攻め入るといったことがありました。野辺地戦争と呼ばれる事件ですが、南部藩を懲罰する意味もあって南部地方の北部は切り離され文化も言葉も違う津軽と合併させられ、青森県になったのです。そのことを八戸あたりの旧南部領だった人たちは、面白くないと思う感情があったというのです。

でもその犬猿の仲の原因はそれより遙か昔にありました。原因を作ったのは、津軽藩10万石の初代藩主・津軽為信です。もともと津軽地方は、南部氏が治めていました。ところが、南部氏の一族、大浦氏の5代目にあたる為信が、元亀2(1571)年に、突如南部氏の津軽の拠点である石川城を襲撃します。城主であり、南部氏24代当主晴政の叔父である南部高信を自刃させ、その後も南部系の豪族を次々に討ち取っていきます。南部からすれば、裏切りで、遺恨が残るのも無理はありません。

弘前城の背後に岩木山が見える 温子 河口@Adobe Stock
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大浦為信が津軽統一...
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松平定知
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