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石田三成の亡霊の噂

その死に加え、城主だった石田三成の亡霊がさまよっているという噂が流れ、佐和山城は破却されてしまいます。これは地元のガイドの方から聞いた話ですが、近江のある古老はお孫さんに、「昔ここには石田さまのお城があって、その後井伊さんが新しいのを作らはった」と話していたそうです。石田三成が「さま」で、井伊家は「さん」というところが、なんとも面白いですね。

ちなみに佐和山城跡と彦根城とは直線距離で1・6kmほどしか離れていません。現在は両者の間に東海道本線が走っていて、西に彦根城、東に佐和山城跡になります。

昭和27年、天守が国宝指定

彦根城は20年あまりの歳月をかけ完成しますが、天守は大津城から、天秤櫓が長浜城から、太鼓門が佐和山城から、西の丸の三重櫓が小谷城からと、近江の古城の部材を移築したことが特徴です。彦根城は、明治の廃城令による破却や戦災も免れ、昭和27(1952)年、天守が城郭としては戦後初の国宝に指定されています。国宝四城という言い方をしますが、そのほかに姫路城、松本城、犬山城が該当します。

天守は三重三階と、大きなものではありませんが、現存する天守のなかでは最も多くの破風(はふ)を持ち、その姿は華麗なものです。玄宮園という回遊式庭園や、楽々園と呼ばれる数寄屋建築の数々など見所は数多く、市民の方々がボランティアで案内してくれます。また、彦根城博物館のなかには能舞台が再現されており、私も伺ったことがありますが実に立派なもので、実際に能と狂言が楽しめます。

彦根城の天守 Eric Akashi@Adobe Stock

十四男が彦根藩第13代藩主に、安政の大獄を引き起こした大老

彦根藩は譜代筆頭35万石の領地を得て、江戸時代を通じてこの地を治め、藩主は14代に及びます。なかでも有名なのは、13代藩主の井伊直弼でしょう。

安政の大獄を引き起こした強権的な大老として知られますが、彼は彦根藩主になることすら奇跡だったのです。というのも彼は第11代藩主・井伊直中の十四男として生まれたからです。

武家社会においては、長男が世子(跡継ぎ)になる決まりで、いわゆる二男以下は、養子に行く以外に結婚もできない身分で、出家する者もいました。

直弼にも何度か養子のチャンスがありましたが、かないませんでした。そのうち彼は彦根城の濠端にある質素な住居を「埋木舎」(うもれぎのや)と名づけ、和歌や俳句、茶、能に打ち込みます。そんな彼は「チャカポン」とあだ名されましたが、それは茶、歌、鼓からきています。そんな風流人の十四男が藩主になった例は、古往今来ありません。

埋木舎 ogurisu@Adobe Stock
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松平定知
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