『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、佐々成政と富山城です。
織田信長の馬廻衆として頭角を現す
佐々成政は尾張の国に生まれ、織田信長の馬廻衆、つまり親衛隊になった頃から頭角を現します。馬廻衆のなかでも特に優秀な10人ほどが、黒母衣衆(くろほろしゅう)といって側近中の側近になるわけですが、成政はそのひとりに抜擢されます。
姉川の戦い、長篠の戦いで活躍し、前田利家、不破光治とともに、柴田勝家の与力となり、3人は府中三人衆と呼ばれるようになります。言ってみれば柴田勝家が北陸方面司令官で、彼らはその下の連隊長でしょうか。
「佐々堤」で水害から領民を守る
当時の北陸は、越中をめぐり、越後の上杉景勝と織田方との戦闘が続いていましたが、成政は天正8(1580)年、その平定に手腕を発揮し、内政でも「佐々堤(さっさてい)」を作り、水害から領民を守る善政を敷いています。
その功績が認められて越中の守護となり、富山城の大規模な改修を行うなど、成政の人生の前半戦は順風満帆でした。
清州会議で柴田勝家側についたが…
ところが、本能寺の変で主君・信長が横死したことで、彼の人生は暗転し始めます。主君の死に加え、跡取りにと考えていた養子の佐々清蔵も本能寺で討たれてしまいました。
信長の後継を決める清洲会議。成政は柴田勝家側につきます。秀吉と勝家が激突した賤ヶ岳の戦いでは、勝家に味方すべきところ、上杉景勝の進軍に備えて富山城から動けず、その間に勝家は敗北。成政も娘を人質に出すことを条件に、秀吉に降伏するしかありませんでした。