厳冬期の北アルプスを越えた「さらさら越え」
しかし、成政は反抗します。天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いが起こると秀吉を裏切って、前田利家が治める能登末森城に攻め入りますが、あえなく敗退。家康と秀吉が和睦すると、今度は浜松の家康の元に、再度戦うように説得に行ったのです。
厳冬期の北アルプスを越えるという、成政のいちかばちかの冒険行は「さらさら越え」と呼ばれ、ルートは諸説ありますが、どれほどの難行苦行だったでしょう。しかし家康は首を縦に振らず、説得は失敗に終わりました。
天正13(1585)年、成政は秀吉の10万もの大軍勢に富山城を囲まれ、再び降伏するしかありませんでした。
九州征伐で肥後一国を与えられるが、秀吉に切腹を命じられ…
その後成政は、秀吉の伽衆として仕えますが、島津を攻めた九州征伐での功績で、肥後一国の大大名に復活します。しかし、国人(こくじん)領主たちに太閤検地を強行したことから猛反発を受け、それが肥後国人一揆に発展してしまいました。成政は単独では鎮圧できずに責任を問われ、秀吉に切腹を命じられてこの世を去りました。
まさに浮き沈みを繰り返す人生だったわけですが、その後の歴史に成政の子孫が登場してくるところが、彼のしぶといところです。