「三中老」の一人に
ご承知のように秀吉の家臣団は、決して一枚岩ではありませんでした。加藤清正や福島正則といった武断派と、石田三成や長束正家のような文治派とが鋭く対立していました。秀吉は両者のバランスをとりながら天下統一を進めました。
秀吉にとって生駒親正は手堅い仕事人であり、かつ武断派と文治派双方のコミュニケーションをとれる、貴重な人材だったのではないでしょうか。
結果、生駒親正は、堀尾吉晴や中村一氏とともに三中老に任じられます。三中老という制度はなかったいう指摘もありますが、五大老と五奉行を取り持つバランサーとして機能したのではないかと想像します。
69歳で讃岐の一国を与えられた
秀吉が天下を取った後、文禄4(1595)年、親正は讃岐国17万8000石を与えられ、69歳にして悠々自適の毎日を送るかに見えました。しかし、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなると、天下は一気に流動化し、慶長5(1600)年、関ヶ原で東西両軍が激突します。
多くの豊臣恩顧の大名がそうだったように、親正も大いに悩みます。そして、自身は石田三成方の西軍に、息子の一正は家康方の東軍に味方させます。真田父子のとった選択と同様、どちらが勝っても生駒家は残るという読みでした。西軍についたとはいえ、親正自身は戦闘に参加せず、剃髪して高野山に入っています。
戦後は、親正の深謀遠慮が実るかたちで、息子の一正は讃岐一国を安堵され、その後親正も許されて高松に戻っています。