『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、毛利輝元と萩城です。
東軍の大将は徳川家康、西軍の大将が毛利輝元
関ヶ原の合戦の東軍の大将は徳川家康ですが、西軍の大将は、今回ご紹介する毛利輝元でした。彼自身は戦いに出陣することもないまま、西軍敗戦の責めを負い、120万石から37万石への大減封となりました。
明治維新の際、長州藩が先頭に立って徳川幕府を倒しに出たエネルギーはどこから生まれたかといえば、それは関ヶ原の合戦とその後の毛利輝元の処遇にあったといってもいいのかもしれません。
「三本の矢の教え」は史実ではない
毛利輝元は毛利元就の孫にあたります。父隆元の急死により11歳で家督を継ぎ、叔父である吉川元春と小早川隆景に支えられながら、尼子勝久や大友宗麟らと戦い、勢力を拡大していきました。
ちなみに、元就が臨終の席で3人の息子たちに結束を呼びかけたという、有名な「三矢の訓(さんやのおしえ)」は、隆元が元就よりも先に亡くなっていることから、あれは後世の作り話、実際にあった話ではありません。