最大のピンチは織田信長との対立
さて、毛利家の最大のピンチは、石山本願寺をめぐっての織田信長との対立でした。天正5(1577)年以降は、羽柴秀吉を中心とした軍勢が輝元の勢力圏に攻め入ります。足かけ6年に及ぶ信長の攻勢に、毛利は窮地に追い込まれました。ところが、本能寺の変で信長が横死したことで事態は一変。毛利は秀吉政権とは宥和の道を選択し、最終的に輝元は五大老のひとりとなりました。
その後秀吉が亡くなると、石田三成を中心にした勢力と徳川家康との間で、天下分け目の関ヶ原合戦が起こります。
輝元は当初、家康に従い会津討伐軍に参加しようとしますが、毛利家の外交僧だった安国寺恵瓊の説得により、西軍の総大将に祭り上げられてしまいました。とはいうものの、輝元にも山っ気がなかったとはいえないでしょう。
石田三成からの催促に“動かず”
輝元は大軍を率いて、豊臣秀頼のいる大坂城に入城します。石田三成から再三にわたり「秀頼様を擁してご出馬願いたい」との催促がありましたが、結局輝元は動きませんでした。しかも関ヶ原で西軍の敗戦が決まるや、立花宗茂らの大坂城籠城策にも耳を貸さず、広島に退却してしまいます。
実は重臣・吉川広家が、家康の勝利を信じ、内通していたのは、みなさんご存じのとおりです。毛利の本体に陣取った吉川軍は、合戦が始まっても動こうとせず、その後方に陣を敷いた毛利軍が動けなかったことで、東軍に圧倒的に有利な状況が生まれたのです。小早川秀秋の裏切り以上に、毛利軍が戦わなかったことが、西軍の敗北を生んだのでした。
毛利家が生き残るには…吉川広家が家康に嘆願
西軍が勝てば、豊臣政権ナンバーワン、負けても家康とは事前に「動かなければ責任なし」との口約束があったので、日和見を決め込んでいた輝元でしたが、戦いのあと家康は、そんな約束などしていないと毛利家の改易を決定。代わって吉川広家に周防と長門37万石が与えられる手はずでした。
青ざめた広家が、その領地を本家の輝元に与えるよう家康に嘆願した結果、なんとか毛利は生き残ります。広島城を引き渡し、萩に移ることになった輝元の胸中は、いかほどのものだったでしょう。