松平定知の「一城一話55の物語」

戦場で異色の存在「仏の茂助」と呼ばれた戦国武将 堀尾吉晴は築城した松江城で“恵方巻”を味わったか?

松江城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、堀尾吉晴と松江城(島根県松江市)です。

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、堀尾吉晴と国宝・松江城(島根県松江市)です。

戦場では勇猛ながら性格は謙虚

堀尾吉晴は戦国武将に詳しい方以外、一般にはあまり知られていないと思います。しかし、松江城を作り、城下を整備した堀尾吉晴は、松江では今も崇め慕われています。

堀尾吉晴は尾張の土豪の長男として生まれ、早くから秀吉に仕えました。彼の幼名は仁王丸でしたが、茂助と名を変えてから頭角を現します。彼のいいところは、戦場では勇猛ながら性格は謙虚で、「仏の茂助」と呼ばれていたところでしょうか。功を争う猪武者が多いなか、異色の存在でした。

松江城天守閣からの眺め。宍道湖が見える   Photo by Adobe Stock

小田原征伐の後に大出世

その茂助は、稲葉山城攻めや備中高松城攻め、山崎の戦い、小牧・長久手の戦いなどで功を挙げていきます。天正18(1590)年の小田原征伐の際は、ライバルだった中村一氏が豊臣秀次に願い出、堀尾吉晴がすでに取っていた陣地を横取りしてしまう事件が起きました。

秀次の宿老でもあった吉晴は、秀次に堂々とその不満を述べ、周りの者をハラハラさせるほどでした。この逸話から、普段はおとなしいものの、曲がったことは許さない吉晴の性格が見て取れます。小田原征伐の後は、浜松12万石を与えられ、大大名に出世します。

松江城の内部 Photo by Adobe Stock

晩年は「三中老」に就任

晩年、吉晴は政権内で重きをなし、五大老、五奉行の調整役ともいえる三中老に就任しましたが、慶長3(1598)年、秀吉が亡くなると、豊臣政権内は家康派と反家康派で二分されました。

吉晴は両派の調整をしながらも、世の趨勢をしっかりと見ていたようです。慶長4(1599)年、老齢を理由に家督を次男の忠氏に譲り、家康から越前府中に隠居料5万石を与えられて一線から引いたのです。秀吉亡きあとの政争に巻き込まれたくなかったのでしょう。

松江城の堀 Photo by Adobe Stock

「吉晴公」と松江の人々から尊敬を集める

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いでは、堀尾氏は東軍につきました。本人は合戦に参加しなかったものの、息子の忠氏が戦功を挙げ、名門尼子氏の本拠地であった出雲富田24万石が与えられることとなりました。

が、吉晴と忠氏は、宍道湖のほとりにある松江の立地に着目し、松江城を築城してここに移りました。吉晴は完成直前に亡くなり、孫の忠晴にも世継ぎがなかったため、堀尾氏はわずか3代で改易となってしまいますが、夕日の美しい松江の町はしっかりと残りました。そのため、松江の人々からは今でも吉晴公と呼ばれ、尊敬を集めています。400年以上たっても愛されているということは、善政を敷いたからに違いありません。

宍道湖に面した白潟公園から見た松江城 Photo by Adobe Stock

節分の前日に海苔巻きのようなものを食べて出陣?

さて話は少し脱線しますが、節分の日にがぶりとやる恵方巻。その起源が堀尾吉晴にあるという説があります。吉晴が、節分の前日に海苔巻きのようなものを食べて出陣したところ、大勝利を収めたため、以来恵方巻は縁起がいいという話になり、広まったという話が残っているのです。

松江城天守閣から眺めた松江市内  Photo by Adobe Stock

板海苔は江戸時代に誕生していますので、この説は後世の創作ともいわれますが、機転の利く吉晴が、合戦の際ににぎりめしに具材を詰めた、恵方巻に似たものを食したことはあったのかもしれません。

国宝・松江城 Photo by Adobe Stock

【松江城】(別名・千鳥城)
慶長12(1607)年に徳川幕府の許可を得て宍道湖を見下ろす亀田山に堀尾吉晴が築城を開始。慶長12(1607)年冬に完成するも、この年の6月に堀尾吉晴は急逝。山陰地方唯一の現存天守は、五重六階の望楼型。2015年国宝に指定される。堀尾氏断絶のあと、京極氏、松平氏が入り、明治維新まで続く。ゆかりの人物として第7代松江藩主で石州流の茶人・松平不昧(治郷)公が知られる。
住所:島根県松江市殿町1ー5
本丸開放時間:8時30分~19時30分(10月1日~3月31日は17時まで)※無料
天守入場時間:8時30分~18時30分(10月1日~3月31日は17時まで)
天守入城料:大人680円、小人(小・中学生)290円
電話:0852 -21-4030(松江城山公園管理事務所)

■明々庵
松江藩第7代藩主・松平不昧公が松江に茶の文化を広めた。明々庵は安永7(1779)年に建てられ、その中心となった茶室を中心とする庵。東京に移築されたが、不昧公150年祭を機に昭和41(1966)年、現在の地に移された。
住所:島根県松江市北堀町278
開館時間:8時30分~18時30分(10月1日~3月31日は17時まで)
休館日:年中無休
観覧料:大人410円、小人(小・中学生)200円、抹茶一服410円
電話:0852-21ー9863

■興雲閣(こううんかく)
松江市工芸品陳列所として松江市が建てたもので、明治36(1903)年に完成。洋館でカフェもある。2階大広間は有料で貸し切り可能。
入館料:無料
開館時間:8時30分~18時30分(10月1日~3月31日は17時まで)
休館日:年中無休
住所:島根県松江市殿町1-59 松江城山公園内
電話:0852-61ー2100

松江城内にある興雲閣 Photo by Adobe Stock

【堀尾吉晴】
ほりお・よしはる。1543~1611年。尾張国の土豪・堀尾泰晴の長男として生まれ、豊臣秀吉に早くから仕える。「仏の茂助(幼名)」と呼ばれ、謙虚さから秀吉に信任を得、浜松城12万石の城主となる。豊臣政権下で五大老と五奉行間の調整役ともいえる三中老を務める。他の二人は生駒親正と中村一氏。秀吉の死後は家康に接近し、石田三成と家康との関係改善にあたる。関ヶ原の戦いでは東軍につき出雲月山富田城24万石に移封となったのち孫の忠晴に家督を譲る。松江城完成直前に急逝。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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