『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、徳川吉宗と和歌山城です。
画像ギャラリー『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、徳川吉宗と和歌山城です。
紀州徳川家の4男、将軍綱吉の「お目見え」
徳川第8代将軍で中興の祖と呼ばれる徳川吉宗という人はたいへん幸運に恵まれた人です。というのも彼は御三家の紀州徳川家の4男に生まれていて、とても将軍になるような境遇ではなかったからです。
そもそもは子どものいなかった5代将軍綱吉が紀州家が男児に恵まれていることを知り、吉宗の父光貞のもとに子どもを見たいと訪ねてきたことが発端です。これで吉宗は将軍「お目見え」となり、出世の道が開けたのです。
長兄、三兄らが相次いで亡くなり
14歳で越前国葛野藩(かずらのはん・現在の越前町にあった)3万石の藩主となります。それから8年後に紀州藩主だった長兄、三兄、父の光貞が相次いで亡くなり、吉宗に紀州藩主のお鉢が回ってきたのです。さらにその9年後には7代将軍・家継が夭逝し、幕府始まって以来初めて御三家から将軍が選ばれることになります。
御三家といっても尾張と紀州に比べて水戸は格下で水戸家から将軍を出さないという俗説もありましたが、結果として水戸からは慶喜が15代将軍につきました。なお、紀州は吉宗と家茂。筆頭御三家の尾張からは一人も将軍は出ていません。
大奥の支持で将軍に上り詰める
尾張と紀州の争いとなるなか吉宗は6代将軍家宣の正室・天英院を中心とした大奥の支持によって第8代将軍に上り詰めていきます。当時の大奥の権力は大きく「絵島生島事件」での、天英院と家宣の側室で家継を生んだ月光院との争いはよく知られるところです。
生まれながらの将軍ではない吉宗は世間を知る将軍でした。徳川宗家ではないため、先例や格式にとらわれず、政策を推し進めます。具体的には新井白石や間部詮房(まなべあきふさ)を解任し、吉宗色を出していきます。
目安箱を設置、カギを自分で管理
財政再建を柱に質素倹約をすすめ、年貢の強化などが行われました。特に注目されたのが目安箱の設置でした。しかも吉宗は目安箱のカギを自分で管理していたといいます。都合の悪いことは将軍の耳に入らないということをよく知っていたのだと思います。
目安箱の投書で生まれたのが、小石川養生所です。貧乏で医者に行けない人々の救済のために作られた医療施設で、投書をしたのが黒澤映画にもなった“赤ひげ”こと町医者の小川笙船(おがわしょうせん)でした。
大岡越前を重用
また町奉行や役人の改革を行い、南町奉行に“大岡越前”として知られる大岡忠相(おおおかただすけ)を登用します。大岡忠相の業績は多方面にわたりますが、よく知られているのは防火対策の強化で「いろは四十七組」を作ったことでしょう。
そのほかにも訴訟の円滑化を図るための「公事方御定書(くじがたおさだめがき)」の制定や大奥のリストラ、洋書輸入の解禁といったことも行いました。
尾張徳川家の7代藩主宗春が“質素倹約”に大反対
吉宗の治世で疑問が残るのは御三卿を作ったことでしょう。吉宗の血筋を引く田安家、一橋家、そして息子の9代将軍・家重の時に清水家ができます。これは将軍の跡取りを出す資格がこの三家にもあると決めたものです。将軍家の血を絶やすまいとするものですが、言い換えれば、御三家御三卿のうち四家が吉宗の血を引くことになります。
なぜこんなことをしたのかというと、尾張家から将軍を出させたくなかったからと考えられます。吉宗が将軍になった時のライバルは尾張徳川家の6代藩主・継友でした。その跡を継いだのが7代藩主の宗春です。
宗春は吉宗の質素倹約を基本とした改革には大反対で、尾張ではどんどんお金を使わせることで景気を良くしようという政策を行います。宗春がど派手な着物で遊郭に通い、大金を使うことは吉宗には許せなかったことでしょう。
吉宗の執念深さ
宗春の積極景気対策も尾張家の財政破綻で幕を下ろすと、すかさず吉宗は宗春に引退を命じます。さらに宗春が亡くなった後、その墓を金網で覆うといった仕打ちをしています。
しかも、遺言でそうさせているのです。吉宗の執念深さを考えると、尾張憎しの感情が御三卿を作らせたのかもしれませんね。
【和歌山城】
天正13(1585)年、豊臣秀吉の弟・秀長が紀ノ川と和歌川に挟まれた地に築城したのが始まり。縄張りは築城の名人・藤堂高虎で石垣には紀州特産の緑泥片石が野面積みで積まれている。慶長5(1600)年、浅野幸長が入城。和泉砂岩を使った切り込み接(はぎ)で石垣が作られた。元和5(1619)年、徳川頼宣が藩主になると、新たにこちらも和泉砂岩を使った切り込み接(はぎ)で石垣が作られ、3期にわたっての築城の歴史がわかる。弘化3(1846)年、火災によって天守は全焼。嘉永3(1850)年に再建されたが、昭和20(1945)年7月9日、米軍の空襲で再び焼失した。現在の天守は、昭和33(1958)年に再建された。
天守閣入城料:大人410円、小人200円
開館時間:9~17時30分
休館日:12月29~31日
住所:和歌山市一番丁3
電話:073ー422ー8979
【徳川吉宗】
とくがわ・よしむね。1684~1751年。徳川御三家紀州藩の第2代藩主・徳川光貞の4男に生まれる。第7代将軍・家継が亡くなると、第6代将軍・家宣の正室・天英院の指名で第8代将軍となる。御三家から将軍が選ばれたのは初めてだった。衰え始めた幕府権力の復興に努め、新田開発や公事方御定書の制定、目安箱など享保の改革を断行した。中興の祖とされるいっぽう、御三卿(田安、一橋、清水の三家)によって吉宗の血のつながるものを将軍にするシステムを作り、幕府財政を圧迫したという批判もある。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。京都芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載
※トップ画像は、焼失前の正殿。「Webサイト 日本の城写真集」より。