ずっとテレビが苦手だった。テレビで繁栄した会社で働いておきながら、お前はなにを言っているのだと叱られるかもしれない。でもテレビに関わる仕事をするのが、ほんとうに苦手だった。正確にいうと私は、テレビという存在の得体がしれ…
画像ギャラリーずっとテレビが苦手だった。テレビで繁栄した会社で働いておきながら、お前はなにを言っているのだと叱られるかもしれない。でもテレビに関わる仕事をするのが、ほんとうに苦手だった。正確にいうと私は、テレビという存在の得体がしれない。いまもそうである。
だって結局、みんなテレビを見ているのか、見ていないのか、いまだによくわからないのだ。ネットやSNSにいれば、「テレビなんか見ない」どころか「テレビなんて持ってない」という声がごうごうと響くわりには、ネットやSNSで毎日話題になるイシューの出所は、けっこうな確率でテレビである。
■テレビが区切る「2つの世間」
「バズ」と称される画像もよく見れば、家のテレビの画面をスマホで撮影したとおぼしきものがたくさんある。少なくともそれ、テレビを見ていないとできないものだろう。テレビで放映された映画のある瞬間にみんなで同じワードを投稿する遊びはさすがに懐かしいものになったけど、リアルタイムにテレビ番組をハッシュタグでああだこうだ言いながら視聴する楽しみ方は、なんらめずらしいものでもない。
もちろんいまはテレビという受像機を介さなくとも、さまざまなデバイスでテレビが見られる手段が提供されていることは理解している。われわれには喜ばしいことに(そしてテレビメーカーにはいささか苦々しいことに)テレビなんてなくとも、テレビは見られるようになったのだ。
とにかく、テレビなんて見ないと言いながら話す話題の由来がテレビなのだから、これを果たして「テレビ離れ」といっていいものか、私にはよくわからなくなる。一方私の仕事の領域においても、SNSがなんだYouTubeがなんだと、いくら広告メディアの変遷が取り沙汰されようとも、もっとも広く効率的に宣伝する手段がテレビでコマーシャルをバンバン流すこと以外に更新されることなく、けっこうな時間が経過している。いくら新しい企画やアイデアを練ろうとも、結局最後はテレビコマーシャルを作って終わりな案件を見るたび、広告もテレビ離れできてないのかよと、ちょっとため息のひとつもつきたくなる。
またSNSで体感する世論とテレビで報じられる世論がまるで違うのだと知る体験を、私たちはしばしば繰り返してきた。その差異が顕著に現れる機会が選挙ではないか。投票率にしろ、選挙結果にしろ、「SNSで見てたんとちがう」と感じる人は多いだろう。他方でSNS発の意見や論調が法律の改正につながる場合もあったりして、SNSの世間とテレビの世間はいったいどちらがニッポンの世間なのか、私はいまだにわからない。
子どもが好きな、見る方向で絵が変わるキラキラシールのように、社会もテレビ側から見るのと、スマホ側から見るのでは、ちがった姿が現れる。かつてネットとテレビは二項対立で語られ、いずれ勝者と敗者が決まるように言われていた記憶があるけれど、現実はそうではなかった。ネットもテレビも粛々と生活に入り込み、私たちの社会に確固たる2つの世間を確立させたのだ。だから(どちらかというとネット側にいる)私は、あっちの世間の常識がよくわからず、テレビが得体のしれない存在であり続けたのだと思う。
しかし着実に凋落という方向で変化したテレビも、私は身をもって知っている。家電としてのテレビだ。家電としてのテレビが、たとえば15年ほど前と比べて、おどろくほどワクワクする買い物の対象でなくなったことは、15年ほど前から大人だった人からすれば、おおむね同意してもらえるのではないか。
■生活が変化したこと、をテレビメーカーは認めたくなかった
私が家電メーカーで働き出した時、言外に叩きこまれたのは、テレビこそが家電の王様であり、テレビを買うことはハレの買い物であるということだった。そのメッセージは、会議の威厳から、投じられる予算から、あるいは関わる社員の顔つきから発せられ、いくら鈍感な新人でもその自負を随所で受信できたのだ。
その後の私は、かの自負に疑問を挟むひまもなく、テレビこそキング、テレビこそ消費の殿堂というかのような、勇ましい広告作りに従事した。実際テレビはいっとき、憧れられながら売れた。しかしその後の顛末は知られるとおりだ。地デジという言葉に郷愁さえ覚える(地デジカという鹿を覚えている人がどれほどいるだろう)現在、満を侍してテレビを買う人はおどろくほど少なくなった。
その背景にはスマホの存在や、テレビが覚悟を要する金額の買い物でなくなったこと、あるいは儲かりにくくなっていった作り手側の事情や構造もあると思う。しかし私たちの生活におけるテレビのポジションが、見る見ないとは別のところで、相対的に低くなったことも大きいのではないか。
なんだかんだいって私たちは、生活を変化させてきたのだ。そしてその生活の変化を、だれよりも認めたくなかったのが、テレビを作って売る側の私だったのかもしれない。かつての栄光があったことを知る私の中には、いまだにテレビを踏み絵として踏めない私がいる。それは私が勤めていた会社の中にも、空気として根強く残っていたのをよく覚えている。
「テレビをどう捉えるか」で世間がガラリと変わって見えるのは、消費者だけではない。テレビを作って売る側も、テレビをハレの家電ととらえるか、ケの家電ととらえるかで、お客さんの像も需要もガラリと変わってしまうのだろう。かつて私は、テレビを会社の玄関に置いて、テレビを踏んで会社に入れる人と入れない人で分けてマーケティング部門を2つ作ればいいのではないかと言い、ひどく怒られたことがある。
その考えはあながち間違いでもなかったと思ってはいるけど、どうしてもテレビには過去がチラついて、私はテレビの現在地がよくわからなくなる。そうやってテレビの宣伝をしようとするたびにめまいがするから、私はテレビへの苦手意識をいつまでたっても拭えないのだ。
文・山本隆博(シャープ公式Twitter(X)運用者)
テレビCMなどのマス広告を担当後、流れ流れてSNSへ。ときにゆるいと称されるツイートで、企業コミュニケーションと広告の新しいあり方を模索している。2018年東京コピーライターズクラブ新人賞、2021ACCブロンズ。2019年には『フォーブスジャパン』によるトップインフルエンサー50人に選ばれたことも。近著『スマホ片手に、しんどい夜に。』(講談社ビーシー)
まんが・松井雪子
漫画家、小説家。『スピカにおまかせ』(角川書店)、『家庭科のじかん』(祥伝社)、『犬と遊ぼ!』(講談社)、『イエロー』(講談社)、『肉と衣のあいだに神は宿る』(文藝春秋)、『ベストカー』(講談社ビーシー)にて「松井くるまりこ」名義で4コママンガ連載中