浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎の「勇気凛凛ルリの色」セレクト(10)「御高配(ごこうはい)について」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第10回は、本土復帰50周年を迎えた沖縄に関するエッセイの2本目。今から77年前の6月、沖縄戦を指揮した海軍の司令官が東京の大本営に向けて送った最後の電文と、3人に1人が亡くなった沖縄戦を九死に一生を得て生き延びた少年について。

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「御高配について」

大田海軍少将最後の電文

昭和20(1945)年6月6日夜、大本営の海軍次官あてに1通の電報が届いた。

激戦のつづく沖縄で孤立無援の小禄(おろく)地区(現在の那覇空港周辺)を守備する海軍根拠地隊司令官・大田実(おおた みのる)少将からの緊急電である。

以下、長文につき一部を抜粋する。

左ノ電文ヲ次官ニ御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし)

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルへキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非サレトモ 現状ヲ看過スルニ忍ヒス 之ニ代ツテ緊急御通知申シ上ク――

文面はいきなり、「沖縄県民ノ実情」から始まる。陸軍主力も行政府ももはや通信の昨日を持たないであろうから、自分がかわって報告をする、というのである。以下、いわゆる「訣別電」の成句である勇ましい戦闘経過や将兵の敢闘ぶりについて、この電文は一行一句も触れない。ただ綿々と、沖縄県民が祖国の防衛に身を捧げ、家屋財産を失い、大変な辛酸をなめたと書きつづる。

――若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護婦烹飯婦ハモトヨリ 砲弾運ヒ 挺身斬込スラ申出ルモノアリ 所詮 敵来タリナハ老人子供ハ殺サレルヘク 婦女子ハ後方ニ運ヒ去ラレテ毒牙ニ供セラルヘシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ――

男子は老人から少年まで軍とともに戦い、若い女性は斬込隊を志願し、看護婦となった女学生は軍が残置した重傷者を介抱した。しかもこうした県民の活躍と困難は米軍上陸のはるか以前、日本軍守備隊が進駐してから終始一貫して続けられてきたものである、と大田少将は述べる。依然として作戦経過や戦闘の美辞麗句は一言も記されない。

そして、本戦闘は既に末期であり、沖縄は一木一草もない焦土と化してしまったと述べた後で、大田海軍少将は万感を込めて、電文をこうしめくくる。

――沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ――

電文には「天皇陛下万歳」も、「皇国ノ弥栄(いやさか)ヲ祈ル」もない。自分が指揮官としてどういう作戦をとったのかも、陸に上った1万の部下たちが、どのようにして圧倒的な米軍を相手に戦ったのかも、全く記されてはいない。ただひたすら、沖縄の惨状と県民の労苦を述べ、軍はそれらを顧みる余裕がなかった、と悔いる。沖縄県民はこのように戦ったのだから、後世決しておろそかにはせず、格別の処遇をして欲しい――大田海軍少将はこの電報を玉砕の訣別電として、6月13日、豊見城(とみぐすく)村の司令部壕で自決した。

陸軍の主力が牛島軍司令官の自決によって組織的戦闘を終えたのは、その6日後のことであった。

県民の3人に1人が犠牲になった戦い

沖縄戦は本土決戦の時間を一刻でも引き延ばすための、いわば捨て石の戦(いくさ)であった。だから軍は、それまでの島嶼戦(とうしょせん)の定石であった水際での迎撃戦法を用いず、米軍を無血上陸させたのち縦深陣地での防御戦と狙撃や斬込みを主としたゲリラ戦に持ちこんだ。

折からの雨期と重なり、彼我入り乱れた混戦となったこの戦は、戦略的な使命こそ充分に果たしたものの、すべての県民を巻きこんでしまったのである。

勝利の予定はなく、何日もちこたえるかという戦であった。軍と県民とはこの絶望的な戦を90日にわたって戦った。

この戦闘にあたって米軍は陸軍と海兵隊の最精鋭7個師団、18万3000を投入し、後方支援部隊を含めればその総数は54万8000にのぼる。史上最大の作戦であった。

これを迎え撃つ日本軍は、牛島満中将麾下(きか)の第32軍2個師団半、しかもその装備も練度もおよそ精強とは言いがたかった。援護といえば、九州と台湾から飛来する特攻機のみであった。

3ヵ月におよぶ戦闘の結果、12万2228名の沖縄県民と、6万5908名の県外出身日本兵が死んだ。この数字は沖縄県援護課資料によるが、むろん正確ではあるまい。

米軍上陸前の空爆や疎開途上の艦船沈没による犠牲、餓死、戦病死等を合わせれば、県民の犠牲者は15万人とも、20万人ともいわれ、この数字は当時の県民人口の3分の1を上回る。

どうか読者の周囲を見渡していただきたい。家族の3人に1人、職場の人々の3人に1人が死んだのである。沖縄の戦闘とは、実にそういうものであった。

小禄の海軍根拠地隊司令官・太田実少将は、陣地構築に当たって荒らされて行くサトウキビ畑を歩き、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、緊急事態をどうかご理解下さい」と農民に詫び続けたという。そうして県民の実情を余すところなく見つめ続けた結果、彼は「天皇陛下万歳」も「皇国ノ弥栄」も「神州ノ不滅」もない訣別の電報を、大本営に向けて打電したのである。

「特別ノ御高配」はどうなったか?

ところで、大田海軍少将が死に臨んでただひとつ国家に願った「特別ノ御高配」は、その後どうなったのであろうか。

「後世」とは、戦がすんで平和が来たら、というほどの謂(いい)である。少くとも、遅ればせながら本土復帰を果たし、海洋博のお祭り騒ぎを挙行することが「特別ノ御高配」ではあるまい。それどころか不平等条約の許(もと)に、夥(おびただ)しい異国の兵と涯てもない進駐基地を背負わされ、騒音に悩まされ暴行を受け続けてきたのである。本土の防波堤として斯く戦い、その3分の1を失った沖縄県民が、である。

50年間、県民はこの不条理を耐え忍んだ。そしてひとりの少女の勇気によって、問題は提起されたのである。言うに尽くせぬ怒りを携えて上京した県知事を、首相と閣僚はまるで腫(は)れ物にさわるような微笑をもって迎えた。何ら合理的な回答も与えはしなかった。むしろ、黙殺に近い。

村山首相はおそらく、軍人としてあの戦を戦った最後の総理大臣となるであろう。もしかしたら彼は、何はさておきこの問題を解決するために政権を執(と)ったのではないかと私は思う。それが天命であると思う。

50年前の沖縄で20万人の人が死ななければ、かわりに20万人の誰かが死んだのだという明らかな予測を、われわれは肝に銘じなければならない。だからわれわれは人間たる信義において、沖縄県民の納得する回答を用意しなければならないと思う。その結果どのような国際的摩擦が生じようと、経済的な打撃を蒙(こうむ)ろうと、われわれは甘んじて受けねばならない。

日本国民の多くが、このたびの事件をまるで他国の災厄のように感ずるのは、半世紀の施政者が沖縄県民の正当な怒りをことごとく黙殺し続けてきた結果である。沖縄戦を外地の戦と認識し続けてきた結果なのである。

大田海軍少将が沖縄県民の敢闘ぶりだけを打電して小禄の洞窟に命を断ったそのころ、摩文仁(まぶに)の海岸を満身創痍で徨(さまよ)うひとりの少年がいた。奇(く)しくも少将と同じ姓を持つ鉄血勤皇隊員である。

ただひとり生き残った少年は、友人たちの血で染まった海に、あてもなく泳ぎ出した。彼は後にこう述懐する。

「何時間かたって目ざめると、なぎさに打ち上げられていた。『お母さん』と呼んだら涙が流れた。涙がほほを伝って口に入った。そのしょっぱさを噛みしめながら、岩の上に指で『敗戦』と書いた」、と。

50年ののち、沖縄県知事となって国家の不実に立ち向かうことになった大田昌秀氏は、公人としての立場上こうした体験はもう語るまい。だがわれわれは、その穏やかな怒りに鎧(よろ)われた言いつくせぬ真実を、すべて知らねばならない。

摩文仁の海に血も涙も流しつくしてしまった少年の体には、鉄の血が流れている。

沖縄県民は斯く戦い、そして50年間、斯く戦ってきたのである。

(初出/週刊現代1995年12月2日号)

2人の大田さん

大田実

大日本帝国海軍少将(戦死後、中将に特別進級)。明治24(1891)年、千葉県長生郡長柄町生まれ。旧制千葉中学を経て、明治43(1910)年、海軍兵学校入校。海軍における陸戦の権威として知られる。

昭和20(1945)年1月より、沖縄根拠地隊司令官を務め、米軍の沖縄上陸に際し、約1万の兵力をもって、沖縄本島小禄での戦闘を指揮する。6月13日、豊見城村の海軍司令部にて自決。享年54。

大田昌秀

元沖縄県知事、元社会民主党参議院議員、琉球大学名誉教授。大正14(1925)年、沖縄県島尻郡具志川村(現久米島町)生まれ。沖縄師範学校在学中の1945年3月、鉄血勤王隊に動員される。同期の3分の2以上が戦死するなか、九死に一生を得て、10月、米軍の捕虜となる。戦後、早稲田大学教育学部を経て、米国シュラキース大学に留学。1990年から1998年、沖縄県知事を2期務める。

1995年9月4日、米兵3人によって12歳の少女が暴行されたことをうけ、10月21日、宜野湾市海浜公園で開催された「米軍人による暴行事件を糾弾し、地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」に、知事として参加し、米軍基地の縮小と日米地位協定の改訂を訴えた。2017年6月12日、死去。享年92。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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