美智子さまの人生の終い方に学ぶ 「最期の時まで仕事をしていたい」というのが渡邉さんの願いであった。しかしながら、おそらく大きな心残りがあっただろうと思う。 私は、渡邉さんはこれからの皇室を見届けてから旅立つのだろうと漠然…
画像ギャラリー皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんは、「日本一の美智子さまファン」だった。働く女性の草分けとして精いっぱい生きた人生を、担当編集者として交流のあった高木香織さんが振り返る。
美智子さま、米寿に
10月20日、美智子さまが88歳のお誕生日(米寿)を迎えられた。ここ数年はコロナ禍で苦しむ人々を常に心配されておられるという。ご自身の外出は控えてはいるが、音楽を愛する美智子さまは、招待された公演には上皇さまとのお二人と随員分のチケットを購入し、空席とはせずに一般の人に分けるなどして応援を続けていらっしゃるという。
どんな時でも、つねに国民を思い続けてきた美智子さま。そんな美智子さまに憧れ、追い続けてきた皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんが、静かに旅立った(享年88)。渡邉みどりさんはご成婚からの「ミッチーブーム」をテレビ番組で、また数多くの美智子さまに関する書籍を出版することで支え続けてきた。まさに、日本一の美智子さまファンだった。
そして、最後の作品は上皇さまと美智子さまの「終活」に関する著作だった(後述する)。
ご成婚パレードから関わり続ける
1959年4月10日、皇太子継宮明仁親王(現・上皇さま)と美智子さまのご成婚パレードが華やかに行われた。放送が始まって日が浅いテレビ局各社も世紀の大イベントとして中継車を繰り出して報道した。日本テレビ放送網に入社して二年目の渡邉さんも、新米ディレクターとして参加していた。
中継車の脇を通り過ぎる美智子さまの、あふれんばかりの健康的な美しさと知性を感じさせるたたずまい、そしてオーラを目の当たりにした渡邉さんは、「この方とは、きっと一生涯関わることになる」と予感したという。
予感は的中し、その後、渡邉さんはテレビ番組「婦人ニュース」や特別番組を担当し、皇室報道に携わっていった。「婦人ニュース」は、美智子さまのファッションからお出まし先の様子まで、あらゆる切り口で美智子さまを取りあげた。
1989年には、渡邉さんは昭和天皇の崩御報道のチーフプロデューサーを務める。そして、平成の御代となり、新天皇即位にともない美智子さまが皇后となられる様子を伝えてきた。やがて60余年にわたり美智子さまを取材して、報道してきた。
陛下と美智子さまに憧れて社交ダンスを始める
ファッション、子育て、お出まし、公務……何を取り上げても、美智子さまの報道は高視聴率を上げたという。「あらゆる角度から美智子さまを取材した」というのが、渡邉さんの自慢であった。しかし、美智子さまを追いかける姿勢は、視聴率のためばかりではなかったと思う。前述したように、渡邉さん自身が美智子さまに憧れと尊敬の念を抱いていた、日本一のファンだったからだろう。
ファンとは、憧れの人の真似をしたくなるもの。それは少しでも近づきたい、共通の場に身を置きたいという心理かもしれない。渡邉さんは、美智子さまに憧れて社交ダンスを始めたのだ。
陛下と美智子さまは、しばしばパーティで社交ダンスを踊られていた。お二人の優雅で楽しそうに踊られるダンスを取材した渡邉さんは、自身もダンスのレッスンを受けるようになった。
「陛下と美智子さまのダンスは、それはすてきで……。あんなふうに踊れたらいいなぁ、と思って社交ダンスを始めたのよ」
渡邉さんは、陛下と美智子さまの写真を見ながら、楽しそうによくこう話してくれた。
渡邉さんのダンスは、お稽古ごととはいえないほど本格的なものだった。プロのダンサーに個人レッスンを受け、定期的にホテルのフロアを貸し切った大きな発表会に出演していた。衣装もメイクもきちんとし、友人たちを観客として招いての公演である。
私も一度観客として招かれたが、競技会で入賞するほどのプロのダンサーのデモンストレーションもある豪華な会で目を見張った。なんでもとことんやりたい性格の渡邉さんらしい、仕事でもプライベートでも同じエネルギーなのだ、と感じたものだった。
渡邉さんは子どものころに本格的に日本舞踊を習い、都内のホールで行われる発表会にもしばしば出演していた。だから、踊ることに対してまったくの初心者というわけではなく、社交ダンスの飲み込みも早かったのだろう。
余談になるが、美智子さまの娘の黒田清子さんは、学習院中等科から始めた花柳流の日本舞踊を大学卒業後まで習われていた。清子さんは、学習院文化祭で「汐汲(しおくみ)」を踊られている。
清子さんの踊りを取材した渡邉さんは、「紀宮さまの『汐汲』は、それは上手だったんですよ」と話されていた。まるで自分の娘のことのように嬉しそうに、幸せな思い出として幾度もいくども語るのである。
美智子さまの人生の終い方に学ぶ
「最期の時まで仕事をしていたい」というのが渡邉さんの願いであった。しかしながら、おそらく大きな心残りがあっただろうと思う。
私は、渡邉さんはこれからの皇室を見届けてから旅立つのだろうと漠然と思っていた。それまでは、病いと付き合いつつ頑張りぬくだろうと……。一度始めた仕事を最後までやり遂げたかっただろうにと、心が痛む。
平成から令和へと御代が変わるにあたり、陛下と美智子さまは次の世代のことと同時に、ご自分たちの終い方についても熟慮されていた。それに気づいた渡邉さんは、陛下が即位されたときから、新聞や雑誌での陛下と美智子さまの終い方への取り組みに関する報道記事を集めていた。それは驚くほど膨大かつ貴重な資料となっていた。ちなみに、朝日新聞は2013年11月15日年付けの紙面で、「火葬」「小規模埋葬」を希望される両陛下の意志を「終活」という報じ方をしている。
陛下と美智子さまは、退位と次の御代へのバトンタッチの態勢を整えるとともに、陵のかたちも決めておられたのである。
陛下と美智子さまを追いかける渡邉さんも、同時に自身の終い方について思いを巡らせていたに違いない。いつでも入院できる病院との連携体制、自分が入るお墓の準備もきちんと整えられていた。
私は最晩年の担当編集者として、10年以上のお付き合いをさせてもらった。2021年春、私はおそらく渡邉さんの最後の著作であろう『美智子さま いのちの旅 ―未来へー』(講談社)の編集を担当した。この本について、渡邉さんは自身のホームページで紹介している。その一部を抜粋しよう。
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この度、私は講談社より4月5日に本を発行いたしました。タイトルは、
『美智子さま いのちの旅 ―未来へ―』
私は美智子さまと同い年。昭和9年1934年生まれ。
内容は美智子さまが皇室を歩まれた軌跡、そして終わり、未来まで。
コロナの時こそ勉強の時だと思って一冊まとめました。
……上皇陛下と上皇后美智子さまは国民のためを思って、費用があまりかからない火葬を提案。他にも生前退位をご決断されるなど、今までの天王家の常識を覆されたのです。
これらのご決断の背景には、次世代を困らせないための心配りがありました。私たちは美智子さまから五つの「終い方の信条」を学ぶことができます。
1.人生の終い方は早いうちから考えておくこと
2.自分たちの意思をしっかり伝える
3.次の世代の意見も聞く
4.成り行き任せにしない
5.「生前に終い方の話をするのは失礼」ということはない
美智子さまは、
「今までできていたことは、『授かっていた』もの。それができなくなったことは『お返ししたもの』」
と、穏やかに受け止められ微笑まれていらっしゃいます。長い人生の終わりにくるものを受け入れるお気持ちを、私たちもお手本にしたいものです。
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仕事人として走り抜けた人生
書籍のゲラ刷りが上がって校正をするとき、渡邉さんは編集と一緒に行うのが常だった。渡邉さんは、ゲラ刷りを自分ですべて読み上げて、文体を直したり、誤字脱字を拾ったりするのである。
「声に出して読んだ方が、リズムがわかりやすいから」
という考えからであった。しかし、それは非常に時間のかかる作業である。読み上げているうちに静かになったなと思うと、渡邉さんが眠ってしまっていたこともあった。
書籍一冊分を読み上げるのは時間がかかる。喫茶店ではまわりへの配慮もあり、晩年はタクシーで私の自宅に来ていただき、心ゆくまで一緒に校正するようになっていった。
子どものいない渡邉さんは、子どもたちとのふれあいをことのほか喜ばれた。帰りぎわに私の子どもたちに話しかけることもしばしばだった。日本舞踊を習っている娘が、お稽古中の踊りを見ていただくこともあった。
「とてもお上手。でもあそこがちょっと創作だったわね」
とおっしゃる。娘に聞くと、「創作」部分は振りを間違えたところなのだという。「なるほど!」と、みんなで笑い合う。それは楽しい仕事のあとのひとときだった。
娘が舞台で踊った「汐汲」の写真をお送りしたこともあった。
「観に行きたかったなぁ。でも、玄関に飾ってあるわよ」
お電話すると、必ずそうおっしゃった。おそらく、渡邉先生が若いころに取材した、大切な清子さんの発表会の姿と重ね合わせていたのだろう。
初夏、すでに出版した本を加筆したいというご相談もいただいた。まだまだ見届けたいこと、やりたい仕事があったことだろう。最期まで仕事人として走り抜けた方であった。
今でも電話をかけたら、「渡邉でーす。高木さん、今度の仕事は何?」というお元気な声が聞こえそうな気がする。
渡邉みどりさんは、美智子さまと同級の88歳だった。東京・麹町にある自宅マンションで倒れているのが見つかったという。亡くなる9月30日の5日前には、「女性自身」の記者からの電話インタビューに答えている。テーマは「美智子さまのご成婚の日の思い出と国際親善について」だったという。自宅で亡くなっているのを発見したのも、仕事の関係者であった。
晩年は腰椎脊柱管狭窄症からくる痛みに耐えながらの仕事であった。入退院を繰り返しながらも、「私は死ぬその時まで、仕事をしていたいの」というのが、渡邉さんの口癖であった。まさに望み通りの最期だったといえよう。一人暮らしの渡邉さんは、人の世話にならずに最期まで仕事人として誇り高く生きたのである。
ご冥福をお祈りします。
渡邉 みどり
皇室ジャーナリスト、文化学園大学客員教授。早稲田大学卒業後、日本テレビ放送網に入社し報道情報系番組を担当する。1989年の昭和天皇崩御報道の総責任者を務める。ドキュメント番組『がんばれ太・平・洋 新しい旅立ち! 三つ子15年の成長記録』で日本民間放送連盟賞テレビ社会部門最優秀賞受賞。『愛新覚羅浩の生涯』(読売新聞社)で第15回日本文芸大賞特別賞受賞。『美智子さま マナーとお言葉の流儀』(こう書房)、『心にとどめておきたい 美智子さまの生き方38』(朝日文庫)、『美智子さま あの日あのとき』、『美智子さまから雅子さまへ』(三部作)の『Ⅰ雅子妃誕生 』『Ⅱ雅子さまに愛子さま誕生』『Ⅲ雅子さま ご成婚十年の苦悩』(すべて講談社)、『美智子さま いのちの旅―未来へ―』(講談社ビーシー/講談社)など著書多数。
高木香織
出版社勤務を経て編集・文筆業。皇室や王室の本を多く手掛ける。書籍の編集・編集協力に、『愛のダイアナ』(講談社)、『美智子さま マナーとお言葉の流儀』『美智子さまから眞子さま佳子さまへ プリンセスの育て方』(ともにこう書房)、『美智子さまに学ぶエレガンス』(学研プラス)、『美智子さま あの日あのとき』カレンダー『永遠に伝えたい美智子さまのお心』『ローマ法王の言葉』(すべて講談社)、『ちょっとケニアに行ってくる アフリカに無国籍レストランをつくった男』(彩流社)など。著書に『後期高齢者医療がよくわかる』(共著/リヨン社)、『ママが守る! 家庭の新型インフルエンザ対策』(講談社)。