1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第39回。全員が真面目で、当面の目標に向かって奮闘努力している家族。暮れも押し詰まった師走、そんな家族だからゆえに起こった悲喜劇……。
画像ギャラリー白兵戦について
師走に「各個戦闘状態」の家族とは
幼いころ、教師から二宮金次郎の話を聞かされて以来、「かたときを惜しんで励む」というソラ怖ろしいトラウマを抱えてしまい、しかも不幸にして家産が破れてしまったので、勤労学生としてそれを体現してしまい、さらに自衛隊生活では「一秒が死命を制する」と叩き込まれ、その後の虚むなしい投稿人生で酒を覚える暇もなく、希(ねが)ったわけでもないストイックな生活の果てに、曾国藩とか伊能忠敬とかいう人物を尊敬してしまい、結果的には悲願の小説家となるにはなったのであるが、要するに貧乏性なのである。
快楽は罪、惰眠は罪、飽食は罪、セックスだって罪、ボンヤリしていることも罪という一種の強迫観念に捉われて、あくせくと日を送っている。
暦(こよみ)は師走。原稿取りの編集者から「先生」とひとこと呼ばれれば、たちまち「師走」という言葉が胸につき刺さる。育ちが悪いので、そもそも「権利」という概念を持たない。言われたことはすべて「義務」だと考えてしまう。
こういう生活を続けていると、家族との絆は断たれてしまうのである。
折しも老母は、糖尿病、心臓病、関節炎、胃腸病等の多発性疾患により、朝から晩まで病院めぐりをしている。家人は経営するブティックが歳末バーゲンに突入したので猫の手も借りたいほど忙しい。娘は大学入試直前で、補習やら予備校やらと、息をつく間もない。そこにきて、家長は二宮金次郎なのである。
俗にいう「すれちがい家族」などというなまなかなものではない。私が目覚めたころには、家族はみなすでに家を出ており、彼女らが三々五々帰ってくる時刻には、私は書斎にたてこもっている。
犬猫の食事の時間に合わせて、誰かが廊下に私のエサを置いて行く。
「ごはんです」
「はい、いただきます」
続いて庭で声がする。
「ごはんよ、パンチ」
「ワン、ワン」
ごくたまに、奇跡的な会食も行われるのであるが、それとてみんなクソ忙しいものだから、私はファックスの束を読みながら、家人は帳簿や伝票類を、娘は参考書を、母は『蘇る!』とか『壮快』とかを読みながら、黙々とメシを食う。
夜更けともなれば、それぞれが勝手にソファや床の上に転がって寝ているのであるが、すでにたがいの健康を気づかう意思など誰にもない。みなてめえのことだけで精一杯なのである。
親子の会話らしい会話といえば、真夜中のキッチンで夜食をあさっているときぐらいで、
「どうだ、調子は」
「まあね。パパは」
「まあな」
というような、不毛このうえない一瞬の対話がかわされる。
断絶、というのとはちとちがう。表現は難しいのであるが、正確無比な軍隊用語を用いるならば、「各個戦闘状態」とでもいうのであろう。
孤立した陣地の中で、部隊はすでに組織的抵抗力を失い、兵士たちはそれぞれに迫りくる当面の敵と戦っているのである。相互の通信は不能となり、兵站(へいたん)線は杜絶(とぜつ)している。
娘を救出するはずが、まさかの……
そんなある夜──
夜来の雨がしとしとと孤塁の草を濡らす、暗い夜更けのことであった。
ふいに、陣地相互の非常通信線であるインターホンが鳴った。一瞬、ついに戦死者が出たかと思ったがそうではなかった。
「もし。こちらリビング。現在仕事に支障ないか、送れ」
と、家人の声。
「こちら書斎。現在〈小説すばる〉新年号エッセイと激戦中。面会不能。了解か、送れ」
「緊急事態発生。サヤカちゃんが駅頭にて雨と遭遇。救援を要請中。至急お迎えされたし、送れ」
「こちら書斎。タクシーで用は足らんのか、送れ」
「こちらリビング。タクシーは長蛇の列。ぜひとも車にて救援に向かわれたし、送れ」
家人の声はいかにも司令部命令という感じで、強圧的ですらあった。それもそのはず、予備校の授業も決戦状態に入っており、時刻は10時を回っていた。しかも篠つく雨、帰路の山道にはゲリラ的痴漢も出没するとあっては、戦況は予断を許さぬ。
「了解。これより救援に向かう」
折しも当面の原稿が膠着状態にあったので、私はいそいそと雨の駅頭で孤立無援の娘を迎えに行くこととした。
戦闘中の緊急事態なのであるから、なりふりなどかまっている暇はない。とりあえずトレーニング・ウェアの上にチャンチャンコを羽織り、火焰太鼓状の頭もそのままに、雪駄をつっかけて車に乗る。
しばしば自分でもウンザリとするのであるが、こういうきわめて日常的な格好でいると、私は絵に描いたような「そこいらのオヤジ」なのである。みごとなハゲッぷりといい、裾ごろも状の残髪の乱れ具合といい、ころあいの腹の出かたといい、脂じみたメガネといい、まさに「THE・オヤジ」なのであった。しかしわれながら感心なことには、私は家族、とりわけ娘にはこうした正体をあまり晒(さら)すことがない。親しき仲にも礼儀あり、というやつである。
娘は夜更けの駅頭に傘をさして佇(たたず)んでいた。かわゆい。靴下のたるみが苦節を物語る。スカートが短いのは、きっとまた背が伸びたのであろう。
ロータリーが混雑していたので、車を少し離れた路上に止め、改札まで迎えに行った。
「おい」
背中からはっきりそう呼びかけた。ところが娘はちらりと私を振り向いたとたん、身を翻ひるがえして走り出したのである。
「おい! こら、おい!」
オヤジは17歳の娘に対しては、適切な呼び名を持たぬのである。
私は雨の中を追った。追いながら考えた。娘はなぜ私から身をかわして逃げるのであろう。しかも迎えを頼んでおきながら。
理由としては、以下のことが考えられると思った。
①父親があんまりきたない格好で現れたのではずかしくなった。
②娘の気に障ることを、知らず知らずに私が言ったかやったかしていた。
③このところいっこうにコミュニケーションをとろうとしない父親に対し、ヘソを曲げた。
いずれにせよ、お年頃の娘の心理とはそのようなものであろう。
「おい、こら、待て、待てって」
追いすがって制服の腕を摑んだとたん、娘は振り返りざまに、やおら私の向こうズネをイヤというほど蹴り上げた。
痛かった。たぶん骨折したと思ったぐらい痛かった。もしこのまま入院したら、原稿を取りっぱぐれた編集者たちに何と申し開きをしようかと思った。まさか雨の駅頭で娘に蹴られて足を折りましたなどとは言えぬ。
「あ、パパ」
と、娘は路上でケンケンをする私に向かって言った。
「な、なんだいきなり。イッテー!」
「変質者かと思ったの」
「バカも休み休み言え。おまえ、さっきハッキリと目が合ったじゃないか」
「でも変質者だと思ったの」
せめて一日にいっぺんぐらいは、顔を忘れぬように対面をしておこうと私は思った。
余談ではあるが、のちに彼女が述懐したところによると、実はそのとき、父親に教えられている通りの護身術で、迫りくる変質者の股間を蹴り上げようとしたのだそうだ。
もしその一撃があわれ狙いたがわずに金玉を破壊していたとすれば、私は死を前にして、「でかした」と娘をほめたであろうか。あるいは各個戦闘の白兵戦の果ての友軍相撃の愚を、深く悔いたであろうか。
(初出/週刊現代1997年12月20日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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