1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第44回。トップランナーと言われる者たちは、少年少女時代から何十足というランニングシューズを履き潰して、栄光をつかんだはずだ。中学時代に作家を志してしまった少年は、文学賞というプライズを得るまで、その道筋に何を残してきたのだろう?
画像ギャラリー「持続について」
仕事場の畳に並んだ不思議な窪み
年頭にあたり、なにかしら100万読者を啓発するようなものを書かねばならん、と思いつつ、目先の私事にかまけて心が定まらない。
作家は全身が一種の考える機械であるから、いったん筆先が停止してしまうと、あたかも蛇口を封じられた水道のごとく思考が膨満してしまい、恐慌状態に陥る。
こうしたとき、たとえば犬を連れて散歩に出るとか、軽い運動をするとか、長風呂につかって汗を流すとかいうのが正しい方法なのであろうが、私は根が執念ぶかいので悩めば悩むほど机の前を離れられなくなる。気分転換というものを知らんのである。
地獄じゃ地獄じゃと呟きつつ雑念でパンパンに膨れ上がった体を悶えていると、突然ケツの下の妙な窪みに気付いた。
私は執筆にあたって常に文机(ふづくえ)を用いている。べつだん必然的理由はないが、幼時からの貧しい住宅事情により椅子とデスクを使う機会がなかったので、今日でも大あぐらをかいて原稿を書いているのである。
日に10数時間も同じ姿勢で座り続けていると、畳がケツの形にへこむ。そこで何ヵ月かに一度、卓を少し移動させてこの窪みから脱出する。
たまに思いついてこれをやると、何だか地獄から脱出した気分になり、筆が進み始める。つまり、地獄を感ずるまでこれに思いつかず、体は数センチの地獄に沈んだまま苦悶しているのである。
いま、一尻分の移動をしたついでに室内を歩いてみた。卓は数年の間に6畳の書斎をほぼ半周している。怖ろしいことには、壁面から1メートルの位置、つまり卓の奥行を隔てて座る位置に、10数個ものわがケツ跡が並んでいるのである。足袋のあしうらにもはっきりそうとわかるほどの窪みのつらなりであった。
愛しい尻跡をあしうらでたどって行くと、悲しい気持ちになった。
これが徴(しる)されているのは、10年住み慣れたこのボロ家ばかりではあるまい。一駅離れた町に借りている昼間用書斎にも、そろそろいくつかの尻跡が残っていることであろう。悪い半生のために20数回の転居をくり返したかつての居室には、今も原因不明の窪みが残っていて、後の住人たちを悩ませているのではあるまいか。
子供の時分からどうしても作家というものになりたいと思いつめた結果、ろくな小説も書けずに膨大な尻跡だけを、私は残してきたのである。
もともと筆は遅い。他の同業者のペースは知らんが、私の場合は本稿の短文を書くのにも6、7時間を要し、昨年ようやく脱稿した長篇小説には2年の歳月を費した。なんとか人並の仕事をこなしているのは、そのぶん長く座り続けているからなのだ。
おまけに読む速度も遅い。概(おおむ)ね1時間で原稿用紙100枚分というのが私の読書ペースで、よほど根を詰めても1冊の読了に5、6時間を必要とする。悲惨な尻跡はつまり、こうしたアナログ生活の結果である。
まるで調練をされた兵士がズラリと並ぶような、整然たる尻跡を指でさぐれば、ふと思いついた「持続は力なり」などという言葉も空疎にしか感じられなかった。
尻跡が思い起こさせる文学修業の記憶
問題は、その尻跡を刻み続けてきた長い時の間にも、私は誰がしかの子供であり、親友であり、恋人であり、夫であり、親であったという事実である。
ついに一杯の酒すらくみ交わすこともなく父は死に、胸襟(きょうきん)を開く間もなく多くの友は去り、一行の愛の言葉さえ聞かずに恋人は別れ、妻子は今もなお達磨(だるま)のごとき男の背中を見続けていることになる。
そう思えば、尻跡はまして悲しい。
もっともこうした悔悟は読者の誰にとっても同じであろう。私の場合は作家という仕事の性質がたまさか尻跡という象徴的な形で確認されるが、多くの読者も全く同様な仕事の痕跡を、たとえば古靴の詰まった下駄箱の中に、あるいは洋服簞笥(だんす)の奥のすでに省(かえりみ)ることのなくなった背広の行列の中に、明らかに見出すことができるはずである。
今さら悔いたところで、真面目に生きるというのはそういうことなのだから仕方あるまい。
ところで、読者が感慨あらたに古い背広の行列を眺めるがごとく、私もわが尻跡にまつわるかつての仕事ぶりを思い返さずにはおられなかった。
作家になろうと思い立った少年のころから20代のなかばまで、「仕事」の主たるものは筆写であった。これは20歳で夭折(ようせつ)した先輩から教わった文学修業の方法で、ともかく古今の名作を、ひたすら原稿用紙に書き写すのである。
気の遠くなるような話であるが、小遣のすべてを原稿用紙にかえて、鷗外や鏡花や谷崎を毎晩筆写した。この修業を命じた先輩を、私は神のごとく尊敬していたので、そうしなければ将来小説家にはなれないと信じきっていた。
畳をへこませて机に向かい始めたのは、それからである。写しおえた原稿の束を学園に持って行き、高等部の教室を訪ねて先輩に見せた。自分のオリジナルな文章を読んでもらったという記憶はない。
「金閣寺」を写しおえたとき、さぞかし褒められるだろうと思ったら、夏休み中に「細雪」を全部写せと言われた。「細雪」といえば、なにしろあのごうつくな厚みのある「細雪」のことである。中学三年生には理解することすらできるはずのない名作を、私は家族に怪しまれながら写し始めた。
先輩はその夏に、信州の湖で溺れて死んだ。訃報を聞いた晩、私は泣くことも嘆くこともできず、ほとんど錯乱しながら「細雪」を写した。一晩に50枚の原稿を書いたのは、後にも先にもその夜だけである。何だか夏休みの終わった始業式の夜に、今さらもう間に合うはずのない宿題をやっているような気分であった。
この先輩のことは、正月早々あまり縁起の良い話ではないので、いずれ日を改めて書きたいと思う。
ともあれ、小説家志望の先輩の突然の死によって、私の人生はまちがいなく変わった。志を享(う)け継がねばならない、という少年らしい使命感に捉われた。そして永遠に、名作筆写の宿題が残された。この使命感と方法は以後十数年にわたって私を呪縛し続け、ゆえあって自衛隊に在籍した2年間を除き、アパートの畳にえんえんと尻跡を残し続けた。
この呪縛からようやく解き放たれたのは、20代も末のころである。投稿した小説がさる文芸誌の新人賞の選考に残り、写すよりも書くべきであると悟ったからであった。要するに私は、戦の終わったことを信じずに十数年も密林にたてこもっていた老兵のようなものであった。
ようやく腰を据えて小説を書き始めた私の部屋の畳に、しかし同じ尻跡は続く。かくて44歳の春に至るまで、尻跡は座卓とともに移動し、ふしぎな凹凸を壁面から1メートルの位置に並べ続けているのである。
原稿が初めて活字になったのは35歳のときで、初の単行本が上梓されたのは、40歳まであと数日というころであった。そしてようやく昨年の春に、文学賞をいただいて作家だと名乗れるようになった。
持続は力である、と思う。しかし文章に倦(う)んじ果てた冬の夜更け、連綿とつながるわが尻跡に気付き、闇の彼方かなたに置き忘れてきたさらに多くの尻跡に思いをはせれば、そんな文句は吐き気を催すほどおぞましい。
いま、もっと怖ろしいことに気付いた。暖かな書斎には呼びもせぬ猫どもが集まる。長年の厳しい躾(しつ)けにより、彼らは執筆中の主人の膝には入ろうとしない。ただ、あちこちに身を丸めて寝ている。
まさかと思って良く良く見れば、五匹の猫が眠っているのはすべて私の尻跡の中なのであった。
悔悟は多少ぬぐわれ、新たな年への闘志が湧いた。
不平不満はさておき、男の尻跡はさぞ心地よかろう。
(初出/週刊現代1996年1月13日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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