1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第56回。高校生の頃、「常夏の島・ハワイ」を「ココナツの島・ハワイ」だと思い込んでいた友人がいた。そんなレベルの思い込みならかわいいものだが、場合によっては、人間関係を壊しかねないのでご注意をというお話。
画像ギャラリー「思い込みについて」
「月極駐車場」「食間に服用」の勘違い
バブルの真最中のことであろうか、いきなり家人から、「ゲッキョクの本社はどこにあるのか」、と訊かれた。
小説家の家庭では無駄話が許されないので、会話は端的な質疑応答の形をとる。
ゲッキョクの本社──私は筆先を休めて、しばらく考えた。家人は多国語を巧みに操る教養人であるが、身勝手な男と所帯を持ったがために一般常識に欠けるきらいがあり、いわばいまだ浜松市郊外の茶畑に悄然(しょうぜん)と佇(たたず)んでいるふうがある。
「ゲッキョク? 何の会社だ、それは」
「不動産屋よ。そこいらじゅうに駐車場を持ってる会社。本社に問い合わせればいいところが見つかるでしょう」
ややあって私は思い当たり、喧(けたたま)しく笑った。とんでもない思いこみである。これが笑わずにおられようか。要するに家人は、上京して四半世紀このかた「月極(つきぎめ)駐車場」を「月極(げつきよく)」という会社の経営する駐車場であると理解していたのである。
私の説明に対し、家人は断然抗議をした。「月ぎめ」を「月極」と表記するのは東京のローカル・ルールであり、少くとも静岡県下の駐車場にそういう表示はない。それをあたかも無知のごとく嘲笑(あざわら)うのは、東京人の思い上りであろう、と。
百万読者の居住地域は果たしてどうであるか知らぬが、東京の賃貸駐車場には必ず「月極駐車場」という表示があり、当然私は昔からそれを「月ぎめ」と読んでいた。まさか「ゲッキョク」という不動産屋の所有にかかるものであるなどとは思っていない。
またこんなこともあった。
家人はあるとき病を得て医者から薬を処方された。鉄面皮であると同時に身体も頑健である家人が薬を嚥(の)むことは極めて稀である。
食事中にフト箸を置いて薬を嚥み、また何事もなく飯を食い始めたので、おい、それは余りにも下品であろうと叱った。
ところが家人は、断然抗議したのである。この薬袋を見よ。食間に服用と書いてあるではないか、医師の指示に従うことがなぜ下品であるのか、と。
要するに家人は、「食間」とは「食事と食事の間」ではなく、「食事の間」だと理解していたのであった。このときもまたつまらぬ論争になったと記憶する。
決して無知ではあるまい。こうした思いこみは誰しも少なからず持っている。問題は、いつどんなときに露見してしまうかということで、時と場合によってはひどい大恥をかくことになる。
かつて私は、「都バス」すなわち東京都営バスを、「都(みやこ)バス」だと信じて疑わなかった人物を知っている。この程度ならまあ笑い話で済むが、40年間にわたって洋式便座に「前向き」に座り続けていた男の告白を聞いたときには、とうてい笑えなかった。
ところでつい先日、私も43年間そうと信じて疑わなかった思いこみに気付き、愕然とした。最低最悪のタイミングで思いこみが露見したモデルケースである。
エレベーター呼び出しボタンは危険!?
都内某ホテルのラウンジで、美しい女性編集者と仕事の打ち合わせをした。
おたがいひどく予定のたてこんでいた月末で、時刻は夜の9時を回っており、用件は急を要していた。
おりしも私はパーティの帰りで、目一杯のオシャレをしていた。女性編集者は日ごろ馬喰(ばくろう)のごとき私の姿しか知らない。彼女が原稿を取りにくるたびに、私は坂口安吾状態の悲惨な書斎のただなかに蹲(うずくま)り、薄い頭髪を火焰(かえん)太鼓のごとく逆立てながら、「バカヤロー」を連呼するのであった。
馬子にも衣裳ということわざがある。パーティ帰りの私はまさかヨレヨレの作務衣を着てはおらず、薄い頭髪も意識的にショーン・コネリーを真似ており、芸能人は歯が命であるから、アパガードで真っ白に磨いてあった。待ち合わせ場所も高級ホテルのラウンジということで、「バカヤロー、いくら待ってたってへも出ねえぞ!」、などとはまちがっても言わず、「やあしばらく。待った?」、などと言うのであった。
女性編集者は某有名作家との会食の後だとかで、少し酒が入っていた。
仕事の話をおえ、べつだんの他意はなく酒を勧めた。私は例のごとくウーロン茶である。眼下には美しい夜景が撒き敷かれており、ピアノは「愛情物語」なんぞを奏でていた。
話題は自然と下世話に流れた。小説家は案外と話材に乏しいのである。しまいにはほとんど猥談になってしまい、いいかげん夜も更けたので、「じゃ、そろそろ行こうか」、と席を立った。
もちろんこの発言にもべつだんの他意はない。彼女は思いがけなく迎え酒が効いていた。で、べつだんの他意もなく肩を支えた。抱いたのではなく、支えたのである。
やがて二人はロマンチックなエレベーターの前に立った。ラウンジはホテルの中層階にあり、上は客室、下は出口である。
話がたいそうまどろっこしくなったが、実にこのタイミングで私の「思いこみ」が露見したのであった。
私はエレベーターの呼びボタンの押し方を誤解していた。ボタンが自分の意思方向を表すものだとはつゆ知らず、自分のいる場所にエレベーターを呼び寄せるものだと思いこんでいたのである。
つまりこういうことだ。何ら他意はなく1階の出口に向かおうとした私は、エレベーターの所在が階下にあることを確認して、「こっちへこい」という意思をこめて▲を押した。エレベーターの仕組とはそういうものであるとばかり思いこんでいた。
おもむろに▲ボタンを押したとたん、彼女がハッと身を固くした理由が私にはわからなかった。
「あの……私、困ります。すみませんけど、困るんです」
物言いがひどく切実であったので、てっきり仕事の話の続きだと思った。彼女が年内に原稿を欲しいというのを、私は年明けでなければムリだとつっぱねたのであった。
「え? ダメなのか。今さらそりゃないだろう、さっきはいいって言ったじゃないか」
「は……そんなこと言ってませんよォ。ダメダメ、やっぱり困ります」
「切ないことを言うなよ。俺だって忙しいんだぞ」
「それはわかります。お忙しくって、ストレスが溜まってるとか、イライラするとか、そういうのは良くわかってます。でも……やっぱりダメです。困っちゃいます」
「この期に及んでムリを言うなよ」
「ムリを言ってるのはそっちじゃないですか!」
「クソッ、なんてやつだ。よしわかった、編集長に言いつけてやる。二枚舌を使うとはけしからん」
「どうぞ、言えるものなら言って下さい。わが社はそんな下品な会社ではありません」
彼女は肩を支え続けていた私の手を、乱暴に振り払った。エレベーターはなかなかやってこない。
▼ボタンをせわしなく押しながら、彼女はフト悲しげな目を私に向けた。
「ガッカリです……まさかそんな人じゃないって思ってたんですけど。そりゃ長いこと編集者をやっていると、いろんなことがありますよ。いろんな先生にもお会いしますよ。でも、こんなのいやです。何だか仕事の続きみたいで……」
「え? ……仕事の、続き……?」
不可思議の扉が開いた。何となくたいへんな誤解が生じているということがわかったので、私はエレベーターに乗りこむやいなやあわてて1階のボタンを押した。
扉はいったん閉まり、なぜか再び開き、やがてエレベーターは下って行った。
「申しわけありません。恥かかしちゃって……」
美しい編集者は1階のロビーに下りると、そう言って深々と頭を下げた。
その夜をしおに、担当は野獣のような若者に代わってしまった。願わくは彼女がこの項を読み、私の思いこみを理解して下さることを。
(初出/週刊現代1995年12月16日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
画像ギャラリー