今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。…
画像ギャラリー今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その32 文豪ヘミングウェイの困惑
伝説のゴルファーの意外な晩年
偶然も、一度だけならただの偶然にすぎない。ところが集中的に重なった場合、何か得体の知れない影がひたひたと忍び寄って、答えの見えない答えを出せと無言のうちに強要されているように思えてくる。つい先週のこと、奇妙な偶然が私の身辺に相次いで発生した。
実はここ数ヵ月というもの、私はゴルフの翻訳に嵌まって睡眠時間まで節約する始末。原著はマイケル・フォッブスが編纂した史上屈指の名エッセイばかり、約百編の集大成である。
1457年に発令された有名な『ゴルフ禁止令』に始まって、たとえば24歳で早逝した全英オープン4連勝の天才、ヤング・トム・モリスの人生最後のゲームの目撃譚、球史に残る伝説の名手たちの素顔など、知られざるエピソードに溢れて申し分ない1冊である(1998年4月、『ゴルフ大全』と題して刊行)が、近年、これほどおもしろい本に遭遇した覚えもなく、多忙なりに充実した日々を楽しんできた。
その晩も、いよいよ歴史の舞台がスコットランドからアメリカに移って、「プロのキング」と呼ばれたウォルター・へーゲンの晩年の姿が登場、胸の躍る仕事に取りかかっていた。
これぞ未発掘エピソードの白眉、引退後の知られざる生活が友人の作家、チャールズ・プライスの筆によって赤裸々に描かれ迫力満点の読み物である。
へーゲンといえば、全米プロ選手権に4連続を含む5勝、ほかにも全英、全米オープンなどメジャーだけで11勝、ツアーのタイトルが80以上、さらには高額賞金が懸けられたエキジビションマッチでも無敗の成績を誇り、ツアーの賞金を現在の水準まで高めた最大の功労者でもある。
彼の上流志向は尋常ならず、最高級の洋服に派手な装身具をまとい、金ぴかのキャデラックに10人もの金髪美女をはべらせて練り歩くパフォーマンスは、カポネが暗躍した時代と重なって全米の話題だった。
ところが、1世紀に1人と言われた天才も練習嫌いでは凋落も早い。やがて1メートル前後の短いパットを右に押し出すようになったのが崩壊の序曲、1940年の全米プロが最後のゲームとなって、引退直後には喉頭ガンの手術も受けた。
酒の飲み過ぎによって頰がたるみ、胴回りも20センチ以上太くなった彼は、自力でソファーから立ち上がることさえ出来ない晩年を迎えていたが、それでも自伝の出版には異常な執念を燃やしていた。
彼は作家とジャーナリストの何人かに面接、とりあえず自伝の執筆者を決めて口述筆記の段取りだけは整えた。
ところがタイトルにこだわって作業が一向にはかどらず、呼ばれた者全員が連日の酒盛りに巻き込まれて急性アルコール中毒にかかり、ふらふらになって退散する始末。彼は半年もタイトルにこだわったが、どうしても気に入らない。そのころには優柔不断の悪評が広まって執筆の受け手もいなくなった。
「そうだ、彼に依頼しよう」
へーゲンが切り札として思いついた相手こそ、なんと文豪アーネスト・ヘミングウェイだった。
「俺たちはパリでいく晩も飲み明かした仲だ。親愛なるアーネストなら、きっと引き受けてくれるだろう」
彼は受話器を取り上げ、文豪の所在を捜し始めた。
まさに興味津々、歴史の彼方に信じ難い話が埋もれていたのである。ゲーリック語混じりの翻訳は苦労の連続だが、未知のエピソードに遭遇すると疲労などいっぺんに吹き飛んでしまう。
度重なる偶然! もしやへーゲンの亡霊!?
さて、未明まで机にしがみついてへーゲンと取り組んだ数時間後、郵便配達の声で起こされた。出てみると箱根の「富士屋ホテル」の秋山剛康総支配人からの速達だった。
創業1878年(明治11年)の富士屋ホテルは、日本の代表的ホテルであり、来日した賓客のすべてが宿泊したといって過言ではない。
また直営の仙石ゴルフコースは、明治天皇のために近在の住民が総出で建設した日本で4番目に古いゴルフ場であり、私にとっては古い資料の宝庫でもある。秋山さんは珍しい物が見つかると、いつも私に送ってくれるのだった。
その朝、到着したクリーム色の封筒を開けてびっくり、1930年6月6日付、来日中のへーゲンと、トリックショットで有名なジョー・カークウッドが揃って富士屋ホテルに宿泊、宿帳とは別に、
「A Wonderful place. Walter Hagen」
と、サイン帳に流麗な献辞が書かれてあった。その下にはカークウッドも素朴な文字で、「The best room」と添えている。へーゲンの文字は昨日書いたかといぶかるほど新鮮で力強く、かなりの達筆だった。
数時間前まで彼の晩年の世界に浸っていた私からすると、いきなり本人が現われたほどのショックである。それにしても、これはかけがえのない宝物、私の資料ファイルにまた一つ喜びが加わったことになる。
わくわくしながら机の上に封筒を置こうとして、すぐ横に置かれたファックスに何やら英文の便りが届いていることに気がついた。時差の関係から、私のところのファックスは深夜に忙しい。手に取って読むうちに、思わず鳥肌が立ってきた。
スコットランドに住む友人、ジム・ヒーリーとは15年来のつき合い。地元紙の記者をつとめる傍ら、彼はゴルフ史の研究に没頭して2冊のエッセイまでものしている。その朝のファックスは彼からの吉報だった。
「ケン、元気かね。元日こそ冷え込んだものの、2日からスコットランドはおだやかな日が続いている。ところで紹介してくれた人があってダンディの旧家を訪れたところ、その家の祖父が撮影した古い時代の全英オープンの写真が70枚も出てきたのだ。まさに新発見!
その中にはへーゲンとボビー・ジョーンズの珍しいスナップもたくさん含まれている。へーゲンの写真が20枚もあるとは驚いた。一刻も早くスコットランドに来なさい」
またもやへーゲンとは、一体どうなったのだろう。呆然と座り込んでいるとき電話が鳴った。ゴルフ仲間のI氏からである。財界の大物でもある彼は早朝の電話を詫びた上、息せき切った声で言った。
「ゆうべ、きみも知っているS氏の家に呼ばれて酒を飲んでいた。すると彼が亡父の形見だといって、へーゲン直筆のサインを見せてくれた。彼が2度目に来日した1936年4月29日の午後2時から、小金井カントリー倶楽部でジョー・カークウッドと演じたエキジビションマッチの際、プログラムにサインしてもらったらしい。S氏は散逸しないよう、きみに保管してもらいたいと言っている」
「ちょっと待って!」
思わず叫んだ。実は翻訳に取りかかる直前、赤星四郎氏が大切に保管していた小金井のエキジビションの半券が、次女の隅田光子さんから私の手元に届けられていたのだ。これも日本に二枚と残されていない宝物だろう。私は霊的資質に欠ける男だが、おぞましや、いまでは亡霊に悩まされている。
さて、へーゲンから自伝執筆の依頼を受けたヘミングウェイも困惑の極みだったらしく、次のように断わったそうだ。
「若いころ、少しだけクラブに触れたこともあるが、それっきり。だからゴルフについては何一つ知らないんだよ。ゴメンね」
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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