ローマの皇帝は、フランスの太陽王は、ベートーベンは、トルストイは、ピカソは、チャーチルは、いったい何をどう食べていたのか? 夏坂健さんによる面白さ満点の歴史グルメ・エッセイが40年ぶりにWEB連載として復活しました。博覧…
画像ギャラリーローマの皇帝は、フランスの太陽王は、ベートーベンは、トルストイは、ピカソは、チャーチルは、いったい何をどう食べていたのか? 夏坂健さんによる面白さ満点の歴史グルメ・エッセイが40年ぶりにWEB連載として復活しました。博覧強記の水先案内人が、先人たちの食への情熱ぶりを綴った面白エピソード集。第32話をお送りします。
1人で23皿×5人分を平らげる!
1800年代中後期のパリは「快楽派」によって占領されていた。ヨーロッパの流行はパリの東部にあるタンブル大通りに集中していた。娼婦に酔っぱらい、蠟人形小屋にサーカス、あやつり人形にからくり屋敷、そして無数のカフェとレストラン、このあたりは不夜城だった。
レストラン『トルトニー』やカフェ『アングレ』、居酒屋『カットコーム』などに夜ごと出没していた顔ぶれを調べてみると、さながら西洋史の書物をのぞき込むようである。
パリの町に刺繡入りのワイシャツを流行させた張本人アレキサンドル・デュマは、いつも数人の美人を連れ歩いていた。もちろんぺール(父)・デュマのほうである。『椿姫』を書いたフィス(子)・デュマは、父親に似ない堅物で、酒池肉林におぼれる父親をいつも批判していた。父・デュマは祖母が黒人だったせいか見上げるばかりの巨漢で、顔立ちにも熱帯の血が濃く現れていた。彼の異常なばかりの食欲と性欲と溢れる創作意欲を眺めたとき、誰しもその体内に流れている熱帯の血の影響を思わずにはいられない。
『アンリ三世とその宮廷』で一躍ロマン作家の名声を博したデュマは、『三銃士』『モンテ・クリスト伯』(巌窟王)で世界的なベストセラー作家になった。
いつも女連れのデュマはレストランの一角を占拠すると、ウエイターに大声で、
「肉を10皿に魚を10皿、スープを3種類。全部5人前ずつ持ってこい!」
と注文するのが常だった。それから女たちに向かって、
「さあキミらも何か注文しなさい」
といった。
最初の注文はデュマ1人のものだったのである。『トルトニー』の主人の話を聞き書きしたバルザックによると、デュマはついに一度もメニューを開いて見たことがない男だった。
コックたちは肉や魚の料理を見つくろって供したが、たいていの場合はデュマから調理場に過分なチップが届けられた。しかし、魚の皮をうっかりつけたままの料理を出したときは、チップは届かなかった。
ベストセラー作家は、酒癖の悪い巨乳好き
デュマは魚の皮と瘠せた女が大嫌いだった。
「オレは結婚しないで500人の〈小デュマ〉を作ってみせるぞ」
と豪語しただけあって、デュマのベッドには貴族夫人、女優、ダンサーから小間使いまでが切れ目なく出入りしていたが、どの女もバストが大きいという共通点を持っていた。
デュマはまた大勢の人たちと食卓を共にすることが好きで、いつも気取ったフロックコート姿の詩人ミュッセや、作品『エルナニ』がコメディ・フランセーズ座で上演されて脚光を浴びはじめた若者ヴィクトル・ユゴーや、ときには画家のドラクロア、劇作家のメイヤック、哲学者で文部大臣のジェール・シモソ、シャンソン歌手のデゾゥジェ、それにバルザックなどが一緒だった。
エミール・ゾラはまだパリで生まれたばかりで、これらの巨星たちが夜遊びから引退したころ頭角を現し、マドレーヌ広場の一隅にあったカフェ・デュランのテーブルの上で、
『私は弾劾する……』
にはじまるドレフュース事件告発の一文を書いたのである。
それはともかくとして、デュマはあまり酒ぐせのいいほうではなかったらしく、夜毎の酒宴の最後に泥酔したこの巨漢を介抱するのが、仲間たちには耐えられない重労働であったという。あるときなどは、とうとう酔いつぶれたデュマを運ぶことができず、マリヴォー街の石だたみの上に一晩放り出したままにしておいたそうだ。
(本文は、昭和58年4月12日刊『美食・大食家びっくり事典』からの抜粋です)
夏坂健
1936(昭和9)年、横浜市生まれ。2000(平成12)年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。その百科事典的ウンチクの広さと深さは通信社の特派員時代に培われたもの。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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