ローマの皇帝は、フランスの太陽王は、ベートーベンは、トルストイは、ピカソは、チャーチルは、いったい何をどう食べていたのか? 夏坂健さんによる面白さ満点の歴史グルメ・エッセイが40年ぶりにWEB連載として復活しました。博覧…
画像ギャラリーローマの皇帝は、フランスの太陽王は、ベートーベンは、トルストイは、ピカソは、チャーチルは、いったい何をどう食べていたのか? 夏坂健さんによる面白さ満点の歴史グルメ・エッセイが40年ぶりにWEB連載として復活しました。博覧強記の水先案内人が、先人たちの食への情熱ぶりを綴った面白エピソード集。第36話をお送りします。
美食よりもとりあえずは酒!
ヘミングウェイは大食漢ではあったが、繊細な味覚よりも酒と美女に目がなかった。1937年に「北米新聞連合」の特派員としてスペイン内乱の取材におもむいたころには、すでにかなり重症のアル中だったといわれている。
弾丸を怖れなかったヘミングウェイは、前線を這い回るとき、必ず2つの水筒をたすき掛けにしていた。片方にはジンを、もう片方にはベルモットを。
戦闘が一段落すると、そこらの岩かげに身をひそめて、ふところから小さな銀カップをとり出してカクテルを作っては楽しんでいたというから相当なものである。この体験が名作『誰がために鐘は鳴る』を誕生させたのだろう。
1961年7月2日の朝、アイダホ州ケチャムの山荘で猟銃を口にくわえ、足の指で引き金を引いて自殺したヘミングウェイは、長年の冒険と放浪とアルコールのために、十指に余る持病で苦しんでいたといわれる。
もう一人の文豪フォークナーは、ヘミングウェイと不思議な因縁を持っていた。
最初の因縁は、2人そろってほぼ同じころ第一次大戦に義勇兵として参加したことだ。またこの2人は、ともにシャーウッド・アンダーソンに強くすすめられて小説を書きはじめている。
その後、ヘミングウェイのほうが早く短篇集をまとめたが、彼の最初の妻がその処女作を出版社に届ける途中、汽車の中に置き忘れてしまい、とうとう発見されずじまいという出来事があって、結局二人そろって1926年にデビューしている。そういえば、死んだのもヘミングウェイが1年早いにしても、同じ7月のことだった。
ヘミングウェイは陽気な大食漢で、なんでもいいからテーブルに大量の食事があればそれで満足。このあたりは以前紹介したように、ごちゃまぜの皿をかき込んで、最後にミルク・コーヒーをぶっかけて残りを飲み干したヴィクトル・ユゴーとそっくりである。
フォークで豆をさぐり、まずそうに口に運び
フォークナーの食生活については、毒舌の評論家ドナルド・リッチーが、
「豆の好きな食の細い男で、皿を持って歩き回りながらフォークで豆をさぐり、まずそうに口に運び……」
と書いている。リッチーは返す刀で難解なフォークナーの文章にまで切りかかる。
「5回読み直してようやくわかったことは、そこが3ページ目だってことだった」
(本文は、昭和58年4月12日刊『美食・大食家びっくり事典』からの抜粋です)
夏坂健
1934(昭和9)年、横浜市生まれ。2000(平成12)年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。その百科事典的ウンチクの広さと深さは通信社の特派員時代に培われたもの。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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