秀頼は身長197cm?の大男 大坂城といえば秀吉ですが、城主として長く治めたのは、豊臣秀吉の嫡男・秀頼です。関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後、秀頼は摂津、和泉、河内の直轄地65万石の一大名におとしめられます。秀頼は身の丈六尺…
画像ギャラリー『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
「土に返る」で縁起が悪いから?“大阪”に
豊臣秀吉が大坂城の築城を開始したのは天正11(1583)年といいますから、本能寺の変の翌年に当たります。大阪は明治以前大坂と呼ばれていましたが、維新の際に大阪となりました。一説によれば大坂の字は、「大いなるものが土に返る=王政復古したのに武家政権にもどる」意味となり、縁起が悪いからだといわれています。
それはさておき、大坂城は上町台地にあり、かつては淀川が流れる天然の要害であり、淀川を上れば京都へ通じる水運に優れた場所でした。
築城当時の堀が見えた
ここに目を付けたのは秀吉が最初ではありません。浄土真宗の寺院であり城郭であった石山本願寺城がありました。指導者・顕如が織田信長と10年以上にわたって争った石山合戦として知られていますが、天正8(1580)年に落城し、焼失した後に秀吉が天下統一の拠点として築城し始めたのです。
2003年『その時歴史が動いた』の収録時、NHKの大阪放送局に隣接する大阪府警本部の改築が行われていまして、築城当時の堀を実際に見たことがあります。現在の城の10mくらい下に堀があり、さらにその下に障子堀がありました。障子堀というのは粘土質で馬も人間も足を取られ、容易に渡れないようにした堀のことです。いきなり400年前にタイムスリップし、実際の城の一部を見たわけです。
銃撃戦を意識した城作り
この大坂城は秀吉が作った城ですが、慶長20(1615)年大坂夏の陣で落城以降、徳川の手によって石垣や堀を埋められ、作り直されたことは皆さんご承知のとおりです。でもこの障子堀は、正真正銘秀吉が作った当時のものですから興奮しました。でもまた埋めちゃったんですよ。秀吉が作った本当の大坂城の一端が見えたと思ったのに、あっという間に埋め戻して工事再開。ロマンなんてかけらもありません。
その時の調査では、竹で編んだ「しがらみ」と呼ばれる防御壁も見つかっています。現代風にいうならトーチカですが、しがらみの中に隠れて鉄砲で城に近づく敵兵を狙い撃つのです。障子堀にしてもしがらみにしても、秀吉が槍や刀での戦いではなく、銃撃戦を意識して城作りを行ったことがわかります。
大坂城は大阪城の約4倍の大きさ
秀吉が作った大坂城は世界一といわれますが、現在の約4倍近い大きさといわれます。一番外側の堀を惣堀といいますが、総延長は8km、東西左右3つの地下鉄の駅があることになります。要塞の中に丸々ひとつの街を作るというのは、秀吉にしかできなかったことでしょうね。
さて、発掘の際、堀の跡からは金箔の瓦の破片や頭蓋骨、鉄砲の玉が残った板、牛馬の骨がたくさん見つかりました。大坂夏の陣の戦闘の凄まじさを思わせるものですが、そのほかに仏壇やら下駄やら、とにかくなんでも埋めたんですよ。
大坂冬の陣のあとに講和条約で惣堀を埋めることに決定しますが、豊臣方は文字どおり一番外側の堀を埋めることだと思っていたのに対し、徳川方は総堀、つまり全部の堀を埋めることだと解釈したと伝わっています。ま、これは後世の作り話でしょうが、この作業には家康の息子・秀忠がしゃかりきになってあたったといいます。関ヶ原の合戦に遅参したことが頭にあったのでしょう。
秀頼は身長197cm?の大男
大坂城といえば秀吉ですが、城主として長く治めたのは、豊臣秀吉の嫡男・秀頼です。関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後、秀頼は摂津、和泉、河内の直轄地65万石の一大名におとしめられます。秀頼は身の丈六尺五寸と伝えられ、これがほんとうならば197cmもあったことになります。二条城で家康と初めて会見した時の堂々とした態度が、家康をして豊臣家を潰すことを決意させたといわれます。秀頼という人は甘やかされた坊ちゃんというイメージがありますが、冬の陣での講和に反対するなど剛直なところもあり、家康の孫娘である千姫を愛した、器量の大きい人物であったようです。
大坂夏の陣の際、大阪城が炎上し、救出されたかわいい孫娘である千姫から、秀頼と淀殿の助命を嘆願され、さすがに家康も心に迷いを見せますが、「七十四にて罰あたらばあたるべし(74歳で罰があたるならあたってもいい)」といい、秀頼に切腹を迫ったといわれます。秀頼、享年23。
家康はその後朝廷に願い出て年号を元和に改め、「元和偃武(げんなえんぶ)」を唱えます。元和は平和の始まりで偃武は武器を蔵に納め鍵をかけるという意味です。家康の平和宣言ですが、その陰でひとりの青年武将が死ななければならなかったということです。徳川と豊臣の権力争いに翻弄された、はかない秀頼の一生といえるかもしれません。
【大阪城】
天正13(1585)年に完成した大坂城は天守、二の丸、三の丸があり天守は五層八階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、金の飾り金具をつけた望楼型天守であったと伝えられる。慶長20(1615)年、大坂夏の陣で灰燼に帰した大阪城だが、寛永3(1626)年、秀忠の時代に白漆喰総塗籠の天守閣が再建された。しかし、4代将軍・家綱の時代に焼失、以来再建されなかったが、昭和6年に豊臣時代の天守を模して再建、鉄筋コンクリートで作られた初めての城となる。ちなみに大坂が大阪になるのは明治維新以降。
天守閣利用料金:大人600円、中学生以下無料
開館時間:9~17時(12月28日~1月1日休館)
住所:大阪市中央区大阪城1番1号
電話:06-6941-3044
【豊臣秀頼】
とよとみ・ひでより。1593~1615年。秀吉と淀殿の子で豊臣家の嫡男。当時秀吉は57歳。生前の秀吉のはからいで、秀忠の娘千姫(母は淀殿の妹お江)と慶長8(1603)年に結婚。朝廷からは五摂家と同様の公家として扱われるなど徳川家との均衡を保ったが、家康の攻めを受け、大坂夏の陣で自刃。享年23。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」
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