今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。…
画像ギャラリー今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その39 報道されない大チョンボ
全英オープン4連勝がかかった大一番
いまは亡きゴルフ界の仙人、ハービー・ペニックが「15本目の秘密のクラブ」と命名したほど、このゲームでは平常心が要求される。
平常心とは、いかなるものか? この定義について仙人は、次のように宣うた。
「すべてに満ち足りた1日が終わり、ゆっくりと湯船に浸かって、手足を伸ばしたような気分。呼吸が深く静かになる時間」
仙人の言葉を逆説的に考えると、欲と不安に血迷うのがゴルフでは自然であって、もし3連続OB、4連続トリプルボギー、5連続ロストボールにも顔色ひとつ変えず、にこやかに世間話でもされたら不気味この上ない。それでも表面上、おおむねゴルフは穏やかなゲームと言えるだろう。
ところが、稀に水面下においてマル秘扱い、報道されない事件が発生しないでもない。たとえば1883年、マッセルバラで行われた全英オープンでは、1人の野次馬が飛ばしたデマによって大混乱が発生した。
ことの発端は1880年に始まる。この年、マッセルバラに生まれて14歳からキャディをしていたボブ・ファーガソンが、やがて無類の名手に成長すると、全英オープンに出場して強豪ジョー・アンダーソンを破り、自らの3連勝のスタートを切った。それまで全英オープンで3連勝の偉業を成し遂げたのは、天才トム・モリス・ジュニアただ1人だけ。
アンダーソンに勝ったボブは、1881年のプレストウィックで2連勝、翌年のセントアンドリュースでも、追いすがるウィリー・ファニーに終盤3打差をつけて3連勝目、これで大騒ぎになった。天才ジュニアの場合、獲得すべき優勝ベルトの作成が間に合わず、1年不開催のあとの大会でも優勝しているので、実際には四連勝と言える。ところがスコットランドの公式見解によると、途中でお休みが入ると連勝にはならないそうだ。
4連勝目がかかった大会開催コースが、これまたなんとも劇的、彼の育ったマッセルバラとあって、とくに地元の熱狂ぶりは尋常ならず。もちろん、エディンバラからグラスゴー、さらには遠くアバディーン、インバーネスに至るスコットランド全土のゴルフファンも、安穏とはしていられなかった。
当時の記録によると、エディンバラからマッセルバラにかけてのホテルと「B&B」(民宿)は、ことごとく満室。主催者側からの依頼によって、急遽「B&B」の看板を出した家もあったが、それでも絶対数が足りなかった。アブれた多くの人は、農家の納屋に潜り込んだり、漁具小屋に泊まって煮炊きする始末、ついにはコース内にテントを張る者もいた。
この時代に1万5000人以上のギャラリーが詰めかけたというから、当時の交通機関も戦争状態だったに違いない。
試合はスタート早々から手に汗握るゲームの連続、終盤になって有利だったライバルのウィリー・ファニーが、なんと最終ホールでトップとザックリのくり返し、プレッシャーに負けて「10打」も叩いたのに対して、われらの英雄ボブが大奮起、上がり3ホールのすべてを「3打」でホールアウトして、ここに全英史上最初のプレーオフが行われることになった。これ以上望むべくもない試合展開に、大観衆は手の舞い足の踏む所を知らず熱狂し、心臓発作が20人、急性胃カイヨウが500人、失禁した者1000人と報告されるほどの興奮ぶりだった。
さて、問題のプレーオフも両者頑として譲らず、勝負は最終ホールまでもつれ込んだ。ボブは2打目でグリーンに乗せていたが、ウィリーはボールがフックして左の浅いラフに入れてしまった。と、ここからが神がかり、車輪の轍から打ち出すためのアイアンを手に、「スパッ」と打ち抜いたボールがピン手前に落ちて転がると、そのままカップに沈んでしまったのだ。
「いまわの際の大奇蹟!」
「トム・モリス・ジュニアの名誉を守った一発!」
ゴルフ史は百万語の賛辞に満ちているが、とにかくウィリーが4連勝を阻止したことだけは間違いない。
狼狽した役員たちがとった手段とは?
大会本部の裏方では、銀製トロフィーのプレートに勝利者の名前を刻むべく、彫金師が鑿(のみ)を片手に待機中だった。やがて遠方から地鳴りのような歓声がわき起こって、さしもの勝負にも決着がついた気配、彼は身構えた。そこに1人の男が飛び込んできて、こう叫んだのである。
「ボブがやったぞ、4連勝だ!」
彫金師は老眼鏡を掛け直すと、ためらいもなく台座に彼の本名、「Robert Ferguson」と刻み込んだ。
それから1時間後、クラブハウスの前で表彰式が行われるまで、彫金師のところに勝利者の名前が正式に伝達されなかった事実こそ、いまに残るミステリーというべきだろう。われらが英雄の敗北に落胆のあまり、役員が職務を忘れたのか、あるいは彫金師に対する伝達係を決めてなかったのか、それとも何かの故意が働いたのか、すべては歳月の彼方に消えた謎である。
やがて表彰式が行われた。優勝したウィリー・ファニーは、どちらかというと喜怒哀楽に無頓着、パッティングだけは鷹のような目つきに変化するが、それ以外の彼ときたら、第1回全英オープンの覇者、ウィリー・パークが言ったように、
「あいつの頭蓋骨には天窓があって、いつも春風が吹き込んでいるらしい」
そういう男だった。表彰式でも飄々として気取らず、周囲からの祝福に笑顔と握手で応えていた。
いま、まさに式典が始まろうとしたとき、役員のあいだに狼狽が走った。ただ事ではない気配だ。人々はトロフィーの周囲に集まり、息をのむ者、絶句して立ちすくむ者、短く悲鳴を上げる者、誰もが困惑の極みに居ても立ってもいられない様子だった。
役員の一人が、ウィリーを物陰に呼んで言った。
「済まないが表彰式は後日ということにしてもらえないか」
「俺はいつでもいいけど、何かあったのかね?」
役員には、どうしても本当のことが言えなかった。
「実は、君の名前の綴りを間違えてしまった」
「俺は一向に構わないよ」
「そ、そうは言っても、失礼極まりない話。すぐにプレートだけ作り直すから、10日ほど待ってもらえないだろうか?」
「いいとも。準備が出来たら、いつでも声をかけてくれよ」
世に善人は多くいるが、彼こそ極めつけの底抜けだった。その証拠に、当日は役員からの懇願に従って表彰式の真似事だけ演じてトロフィーは持ち帰らず、しかも、ついに死ぬまで舞台裏について漏らすことがなかった。実際の表彰式は2週間後、関係者10人ほどが集まってひそかに行われた。
地元の英雄が負けたことで、大観衆が悄然と引き揚げたのも一つの幸運だった。飾られたトロフィーの誤植に気づく者さえいないほど、真似事の表彰式は閑散としていた。かくして世紀の大チョンボは闇に葬られた。もし役員の1人が日記に記さず、子孫の1人が書庫の片隅からそれを発見しなければ、これは誰にも知られない話だった。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。