松平定知の「一城一話55の物語」

現代まで日韓関係に影を落とす、秀吉の朝鮮出兵で築城された名護屋城 家康は秀吉没後に“破却”した

名護屋城跡(「Webサイト 日本の城写真集」より)

朝鮮との関係修復に動いた家康 さて黒田官兵衛は、文禄の役で渡海したものの、石田三成とそりが合わず、勝手に名護屋城に帰還してしまったため、秀吉の叱責を浴びます。官兵衛は頭を丸め、如水を名乗りました。また家康は、この戦いには…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

明の征服を考えた

名護屋城は、歴史好きの方以外あまり聞いたことがない城かもしれません。しかし、現代まで日韓関係に影を落としている、豊臣秀吉の朝鮮出兵は、この名護屋城から16万もの兵が渡海したのです。伏見城に続いて秀吉の話となりますが、名護屋城を築城した当時の状況を振り返ってみましょう。

名護屋城跡 Paylessimages@Adobe Stock

天正18(1590)年に小田原城に北条氏を破り、天下統一を果たした後、秀吉は明国の征服を考えます。いわゆる唐入りです。みなさん、高校の歴史で、文禄元(1592)年の文禄の役と慶長3(1598)年の慶長の役について習ったと思います。秀吉は朝鮮に攻め入って戦争を行いましたが、実は明国、さらにはフィリピンやインドをも征服する気だったのです。唐入りはその計画の一部というわけです。

本丸跡の青木月斗句碑   mtaira@Adobe Stock

朝鮮通信使がやってきたことに、秀吉は…

九州征伐を終えた秀吉は、対馬を治める宗氏の所領を認めるいっぽう、李氏朝鮮に攻め入ろうとします。対馬は山地が多く、農耕に向きません。対馬は李氏朝鮮との貿易によって生計を立てていましたから、宗氏は秀吉に、考えを改めるように説得します。いっぽうで宗氏は、李氏朝鮮に秀吉のもとへ使節を出すよう要請し、天正18(1590)年、朝鮮通信使がやってきます。表向きは秀吉の天下統一の祝賀ですが、朝鮮側としては、侵略の意志がほんとうにあるのかを知りたかったのです。

秀吉は、本来なら朝鮮国王が来日して祝賀を述べるべきだと考えていましたが、国書を携えてきたことで、朝鮮は日本に服従したものと考えました。秀吉は李氏朝鮮の使者に「征明嚮導(せいみんきょうどう)」を求めます。これは、「明を攻める際に先導を務めよ」という意味です。もちろん、李氏朝鮮は明の朝貢国であり、日本に服従するはずがありません。板挟みにあった宗氏は「征明嚮導」から「仮道入明(かどうにゅうみん)」と言葉を和らげて、李氏朝鮮側と交渉します。つまり「明に討ち入る際は道を貸せ」ということにしたのです。それでも、李氏朝鮮側は秀吉が本気で攻めてくるとは思っておらず、もちろん「仮道入明」も拒否します。李氏朝鮮からの回答がなく、業を煮やした秀吉は、いよいよ朝鮮出兵の準備を進めました。

名護屋城の天守台 k.tokushima@Adobe Stock

豊臣秀次に関白の座を譲り、「太閤」と呼ばれて

天正19(1591)年、最愛の子鶴松が亡くなります。落胆した秀吉は、関白の座を甥の豊臣秀次に譲りました。関白を退いた人物の尊称が「太閤」で、以来太閤秀吉と呼ばれます。

そして秀吉は渡海を考え、玄界灘に面した朝鮮半島まで最短距離の半島上に、巨大な城を築きました。縄張りを行ったのは黒田官兵衛。九州各地の大名に協力させ、大坂城に匹敵する17万平方kmの敷地を持つ巨大な城が、あっという間にできあがりました。天守は金箔瓦を頂く五層七重で、海からも輝いて見えたといいます。また、160を超える諸大名の陣屋が置かれ、京都を凌ぐ賑わいだったと伝えられます。現在は礎石が残るだけですが、ほとんどの大名の陣屋があったわけですから、復元整備が進めば、大人気になるでしょう。

名護屋城跡の遊撃丸石垣  mtaira@Adobe Stock

朝鮮との関係修復に動いた家康

さて黒田官兵衛は、文禄の役で渡海したものの、石田三成とそりが合わず、勝手に名護屋城に帰還してしまったため、秀吉の叱責を浴びます。官兵衛は頭を丸め、如水を名乗りました。また家康は、この戦いには理がないと考え、結局海を渡りませんでした。名護屋城の陣屋では、『吾妻鏡』を読んで過ごしたといいます。吾妻鏡はご存じのように、鎌倉時代の初代将軍源頼朝から、6代将軍宗尊親王までの将軍記です。後に大坂夏の陣の際、豊臣秀頼を助命しなかったのは、平清盛が源頼朝や義経を助命したことが、結局自分の首を絞めたという故事を学んだためともいわれます。

家康は、秀吉が亡くなるとすぐに名護屋城を破却させるなど、朝鮮との関係修復に動き、江戸幕府は鎖国後も、対馬藩を通じて李氏朝鮮との貿易を続けます。このあたりの視野の広さが家康の魅力といえるでしょう。家康は決して鎖国論者ではありませんでした。鎖国が始まったのは、三代将軍家光の時代です。

名護屋城跡から玄界灘を望む  mtaira@Adobe Stock

【名護屋城】
天正18(1590)年に小田原城を攻略し、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が朝鮮出兵の本営として築城したのが名護屋城だ。縄張りは黒田官兵衛、石垣普請は加藤清正、九州の諸大名を動員し、わずか5カ月で完成したという。天正20(1592)年完成、金箔瓦を頂く五層七重の天守を持つ本丸のほか、多数の曲輪を持ち、総面積17万平方kmという大坂城と並ぶ巨城だった。160もの大名が集まり、10万人以上の城下町ができあがったが、慶長3(1598)年秀吉が没すると、日本軍は朝鮮半島から引き揚げ、名護屋城も廃城になり、用材は唐津城に使われ、大手門は仙台城に移されたとされる。さらに島原の乱後に使用されることを恐れ、徹底的に破却された。

■佐賀県立名護屋城博物館 ※名護屋城跡に隣接
入館料:無料(特別展は有料)
開館時間:9~17時
休館日:月曜日(月曜日が祝休日の場合はその翌平日)、12月29~1月3日
住所:佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3
電話:0955-82-4905

【豊臣秀吉】
とよとみ・ひでよし。1537~1598年。天正18(1590)年に天下統一を果たした後、明国の征服を目指し、朝鮮半島に出兵したのが文禄元(1592)年の文禄の役と慶長3(1598)年の慶長の役だ。明国征服の暁には北京に時の後陽成天皇を移すとされた。もともと明国への進出は織田信長が考えていたものだが、秀吉は名護屋城を作り、日本から16万人もの大軍を送り、朝鮮、明国連合25万人と戦った。これは16世紀における世界最大の戦いとされる。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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