バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第100回は、「ふたたび非常について」。
厳しい外出制限を受けるのは軍人の宿命
市ヶ谷駅の改札を出たとたん、若者たちは駐屯地に向かって猛然とダッシュする。(現在、防衛省がある市ヶ谷台には、この原稿が書かれた1995年当時、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地が設置され、防衛庁[現防衛省]は六本木にあった=編集部注)
赤信号をものともせずに靖国通りを渡り、爪先あがりの左内坂を一気に駆け登る。大勢の若者たちが血相を変えて疾駆するさまは、さながら百鬼夜行のごとくである。塀ぞいの営舎の2階から当直陸曹が顔を突き出し、「あと1分30秒」などと叱咤する。
だがどんなに切羽つまっても、衛門を走り過ぎてはならない。そこは塀を内外に隔てる厳粛な関所なのである。必ず歩度を緩め、服装を整え、外出許可証を提示して通過しなければならない。そこから再びダッシュし、中隊事務室に飛び込んだ瞬間が、当人の「帰隊時間」となる。
定められた刻限は22時。1秒でも過ぎれば「帰隊遅延」である。
帰隊遅延者は部隊の建制を乱した罪人であるから、まず営内班の古参隊員から相応の制裁を受け、中隊長宛の始末書と反省文を書かされる。もちろん当分の間、外出できない。
22時の消灯ラッパがなったのちも帰隊せず、何の連絡もない場合は、当人の所属する営内班に「総員起こし」がかかる。
班員のひとりひとりに未帰隊者の消息が訊問され、当人が外出前に提出した「外出許可願」の細目が点検される。
「未帰隊者」が「脱柵者」として確定すれば、連隊本部と駐屯地の警務隊、すなわち昔でいう憲兵隊に連絡せねばならない。重大事件である。
そこで通常、中隊は日帰りの「普通外出」を、一泊二日の「特別外出」に変え、同じ営内班の隊員を動員してひそかに捜索を開始する。実家や行きつけの飲み屋、交際中の女のアパートなどをしらみつぶしに回り、万策つきれば盛り場の路上やターミナルの改札に張り込む。
さらに「特別外出」を「休暇」にさしかえ、3日ないし4日の捜索期間を設ける場合もある。これで発見できなければ、「事件」とするほかはない。
「脱柵者」はすなわち「脱走兵」である。旧軍では重営倉、敵前であればただちに銃殺という重罪人である。ただし自衛隊は独立した司法権を持たないから、停職や減給等の罰則が科せられる。
最も重い罪は「懲戒免職」であるが、帰りたくない者をクビにするのでは話にならんので、よほどの事情がない限りこれが行使されることはない。
現実には、連れ戻されたとたん班員たちの制裁を受け、停職期間の明けるまで日がな幹部室に正座させられ、綿々と反省文を書く。少なくとも数ヵ月間は外出禁止である。
——と、これは私が陸上自衛隊にいた昭和40年代における、ごく一般的な事情であった。
なぜこのような厳しい制約を受けるのかというと、それは自衛隊が軍隊だからである。軍隊が任務を遂行するためには、24時間の常時即応体制が不可欠なので、こうした生活は軍人の宿命ということになる。
軍隊のあらゆる制度、あらゆる習慣は遠くナポレオンの時代に完成されているから、世の中がどう変わろうと古今東西、兵隊はみな帰隊時間に向かって走ることになっている。ところが、近ごろの自衛隊はこうした厳しい制限がないらしい。勤務時間が終わればあたかもふつうの勤め人のごとく自在に外出し、翌朝の課業時間までに戻ってくれば良いそうだ。細かい規定や躾はあるのだろうが、おおむねはそういうことであるらしい。
国民と自衛隊は正しく自衛隊の存在を認識しているか
そこで私は、ちょっと大胆な推理をしてみた。あくまで小説家の推理であることを承知おきいただきたい。
阪神大震災が発生したとき、災害地域内の伊丹には第36普通科連隊という1000人規模の大部隊が駐屯していた。にも拘らず、現場にまっさきに到着したのは、姫路の第3特科連隊200余名であった。この謎については、本稿「非常について」にて詳述した。
地震の発生は未明の時刻である。もし仮にその瞬間、伊丹連隊が災害派遣部隊としての建制を維持していなかったとしたら―—と、私は考えた。
私の在隊当時は、外出者数の厳しい制限によって、いついかなる場合でも部隊行動がとれるようになっていた。古参の陸曹は旧軍出身者であり、わずかな外出者の優先順位も、おのずと飯(メンコ)の数であった。
四半世紀が過ぎ、現在の自衛隊は私には考え及ばぬ民主性を持っているだろうと思う。それはそれで結構なことである。しかしもし仮に、その民主化があの朝の部隊行動を阻害したとすると、これはゆゆしき大問題であろう。
外出中の隊員の大多数は被災地内にいたはずで、とっさに帰隊できなかったと思われる。その数のいかんによっては、精強な伊丹連隊は即応性を失っていたかもしれない。
仮説である。しかし現実に外出制限は大幅に緩和されており、また将来もさらに緩和されるであろうことは明らかなのだから、私としてはこの仮説の是非を知りたいのである。
ごく一般的な軍事常識として、軍隊は定員の30パーセントを消耗すると、戦闘部隊としての建制、すなわち既定の作戦遂行能力を失うそうである。この数値はおそらく一般企業においても、警察や消防や病院や役所や、その他どの組織にしてもほぼ同じであろう。
つまり私は、少くとも中部方面総監部から麾下部隊に対し待機命令の出た、平成7年1月17日午前6時30分の時点で、被災地域を管掌する伊丹連隊の営内に、70パーセントの実働隊員が残留していたかどうか知りたいのである。
自衛隊について多くの国民は無知であり、マスコミもまた無知である。自衛隊すなわち日米安全保障条約という連想はしても、自衛隊がすなわち国民生活の安全を保障する存在であるとは、日頃から誰も認識していない。本来、軍隊の使命とはそれしかないのである。
軍隊を自衛隊と呼ばねばならないのは、歴史的必然なのだから仕方ないとしよう。しかし本来の使命すら国民から認識され得ない軍隊などというものは、決してあってはならない。ましてや軍隊自身の自覚においてをやである。私が重箱の隅をつつくがごとき邪推を働かせる理由はそれだ。
仮説はさておき、私は自衛隊員の民主的待遇改善について、甚だ疑問を感ずる。わずか2年間の貴重な体験がその後の私の人生にもたらした福音を考えれば、少くとも若い任期制隊員の生活を一般社会のそれに近付けようと努力することが必ずしも「改善」だとは思わない。
青春期に徹底的な時間の掣肘(せいちゅう)を受けた者は時間の重要性を生涯忘れない。厳しい訓練で培われた気力体力は一生の財産となる。縦の序列と横の連携を体で知ることも、便器を素手で洗うことも、モッソウ飯をすばやくかきこむこともみな貴重な体験である。それらをすべて学べば、在隊中の薄給などは社会復帰したとたんに取り戻せる。若者たちにとって軍隊とは本来そういう場所でなければならないと信ずる。
ひとつの機能として考えても、国民の生活と生命を保障する組織が、一般社会の労働基準から超然としているのは当たり前である。
世論がこうした認識をしているなら、自衛隊をさしおいて新たな災害対策専門の組織設置うんぬんという議論は起こりようがない。要は自衛隊を使えば良いのである。防衛上の脅威が去った分だけ、災害出動の装備と体制を充実させれば、それが最も合理的で強力な組織となるはずだからである。
災害とは、自然との戦争に他ならない。だから戦闘遂行のための自己完結性を持ち、政府の意思に直結した全国的組織である自衛隊の他に、この使命を全うするものは考えづらい。
国民が正しく自衛隊の存在を認識しているか、また自衛隊が自身の使命と本分を正しく認識しているか、今次災害のもたらした課題はこの一点に尽きると思う。
私は除隊後四半世紀を経た今でも、多くの仲間たちとともに市ヶ谷の左内坂を必死で駆け登る夢を今でも見る。
かつて自衛隊員であったことは、永遠の私の誇りである。
(初出/週刊現代1995年2月25日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。