バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第103回は、「カラオケについて」。
カラオケは「悪魔の三大発明」のひとつである!
カラオケが嫌いだ。
世の中で嫌いなものを頭から3つ並べろと言われたら、ほとんど迷わず、1にカラオケ2にフォアグラ、3に太宰治、と答えるであろう。
もちろんこれは個人的嗜好であるけれども、社会的見地から言うなら、カラオケ、ワープロ、テレビゲームを、「悪魔の三大発明」と信じて疑わない。
つまり私は、カラオケという遊戯を、もしくはその存在自体を、適切な表現をするなら蛇蝎(だかつ)のごとく忌み嫌っている。
仕事上の儀礼とはもっぱら関係なく饗応と接待とを好む私が、「ささ、1曲どうぞ」と言われたとたんに、たちまち席を蹴って帰っちまう理由はこれである。そのぐらいカラオケが嫌いだ。
とすると、おそらくこいつは顔に似合わずシャイなのか、あるいはひでえ音痴なのか、と疑われるであろう。しかしこの推理はともに当を得てはいない。女に対してはシャイだが世間様に対しては厚顔無恥であり、自慢じゃないが学生時代はブラスバンド部に所属していた。
まあ聞いてくれ。ことに先日、手渡したマイクで横っ面を張り倒された某編集者は聞いてくれ。私がかくもカラオケを憎悪するのには、聞くも涙、語るも涙の深く悲しい事情があるのだ。
たいへん意外なことであろうが去ること20年前、私は弾き語りをしていた。琵琶法師ではない。ギターの弾き語りである。
若い読者にとっては「弾き語り」というもの自体すでに死語であろうから、説明をしておく。カラオケの出現する以前、ちょっと気の利いた酒場にはたいてい小さなステージがあって、ギタリストかピアニストが雇われていた。で、客の歌の生伴奏をし、あるいはリクエストに応えて自慢の歌声を披露していたのである。
口で言うほど簡単な仕事ではない。当時は人前で歌を唄おうなどという大それた客は少く、「これを唄ってくれ」というリクエストの方が断然多かった。
ということはつまり、ナツメロ演歌から横文字のスタンダード・ナンバーに至るまで唄いこなさねばならず、当然、全く知らない歌でも初見の楽譜で唄わねばならない。
これだけでも相当の技術を要するのだが、さらにうまく聞かせるためには、楽譜を一瞥して、自分の音域に合わせた移調をしつつ唄わねばならない。当時の市販楽譜はレコードのオリジナル・スコアが多かったから、ほとんどの曲はこの移調をしなければならなかった。
わかりやすく言えば、私の場合トップの音がGであったので、楽譜の中の最高音をGに合わせてコードを移調しながら唄うのである。「できません」「知りません」はもちろん禁句であった。
こうした特殊技能が要求されるから、そこいらのバンドをやっていたおにいちゃんでは全く歯が立たず、多少なりとも楽典を知っているブラスバンドやオーケストラの経験者とか、元は中学の音楽教師とか、音楽塾の先生のアルバイトとか、そういう鼻っ柱の強い連中が多かった。
当然、需給のバランスにより仕事には不自由せず、客からも店の女どもからも「先生」と呼ばれ、ギャラもたいそう高かった。
どのぐらいの実入りがあったかというと、ワンステージ30分を4回で月俸15万以上、たいてい近所の店を2軒かけもち、早番遅番でつごう4軒まで可能であるから、月に60万か70万の収入になった。20年前のことであるから、これは相当の報酬である。新宿や六本木の盛り場で、店から店へとギターケースを持って走り回る「弾き語りの先生」の姿をご記憶の方も多いであろう。
しかも、この商売には余禄が多かった。自分のヘタクソな歌を伴奏してくれるのが生身の人間だと思えば、チップをはずむのは人情である。1000円2000円のおひねりでも毎度のこととなればバカにならず、正規のギャラにこれを加えれば月に100万かそこいらにはなっていたと思う。おまけに店がハネるのは3時4時のハンパな時間であるから、女性の酔客や店の女と時間調整をするのは、日課みたいなものであった。
もとより一種の職人であるから、現在こうして小説を書いているのと同様、仕事に対する苦痛はてんで感じない。まさにわが世のパラダイスとでもいうべき生活であった。
最新式デジタルカラオケにとどめを刺される
さて、そんなある夜、弾き語りどもがステージの合い間にたむろする六本木防衛庁ちかくの喫茶店で、妙な噂を耳にした。
新しく開店したクラブに、歌の伴奏をするキテレツな機械がある、というのである。そのときは、全く笑い話であった。私たちはみな、伴奏のレパートリーの多さを知っていたから、カセットテープなどで客のニーズに応えることなどできるはずはないと考えていたのである。
当時テープといえば、今でいうビデオカセットぐらいの大きさのある「8トラック」を指したので、1本に6曲か8曲ぐらいの伴奏が入っていたとしても、その量は膨大になるはずであり、機械操作の手間などを考えれば、私たちの代りをつとめるのはまず物理的に不可能であると思われた。
実のところ、それほど深くも考えなかったのである。どこそこのマネージャーがやめたとか、あの店に新しく入った女は美人だとかいう、たわいもない噂のひとつに過ぎなかった。いわんや、まさかその機械のために遠からずほぼ全員の弾き語りが失業の憂き目に遭おうなどとは―—。
草創期の8トラックカラオケというのは、たしかに怖るるには足らなかった。操作のために1人の店員がかかりきりにならねばならなかったし、客はイライラし、店はちらかった。
だから当初は、弾き語りが休憩に入る(他の店に行ってしまう)時間のつなぎとして使用されていたと思う。ステージに戻れば以前にも増して「待ってました」という空気が伝わった。カラオケは弾き語りのつなぎ、もしくは「ひきたてやく」としか認識されていなかった。
しかし、ほどなく登場した6トラックテープのカラオケ、すなわち小さなカセットを搭載したそれは、弾き語りたちの脅威となった。
8トラックに較べれば数分の一のサイズでありながら、数倍の容量と圧倒的な操作機能を持っていたのである。それは新機種というよりも、弓矢が鉄砲にとって代わられたようなものであった。
こうして、夜の巷(ちまた)にエポック・メイキングが訪れた。
私がヤバいと感じたのは、その機能性よりもむしろ、経営上の合理性であった。
リース料はどんなに高くたって、「先生」のギャラを上回ることはあるまい。風邪をひいて休む心配もないし、チップは店の収入となる。夜食を食わせる必要もないし、まさかカラオケが店の女とフラチな関係を結ぶこともない。
つまり、ときどきは「できません」「知りません」とは言うが、鼻持ちならぬ「先生」よりは、まちがいなく店のためになるのである。
つごう4軒のステージが、3軒になり、2軒になった。喫茶店にたむろする弾き語りも、目に見えて減って行った。需要のバランスにより、いつしか「先生」が「浅ちゃん」に変った。
私が1軒だけの専属になってしまったのは、6トラック機の登場からわずか1年後のことであったと思う。
私は実家がご同業であり、手先も器用だったので、忙しいときはウェイターやコックの代りができたから、その能力を付加価値として依然弾き語りを続けていたのであった。私は黄金時代最後の弾き語りであった。
ある夕刻、ギター片手に「おはよーございまーす」と出勤してみると、開店前の店内が騒々しい。何やら機械を運び出している。ざまあみろ、とうとうカラオケめブッこわれたか、と思いきや、ステージのスポットライトの下には最新式デジタルカラオケが鎮座ましましているのであった。マスターは呆然と立ちすくむ私に言った。
「浅ちゃん、悪いけど今日からキッチンに入ってよ!」
こうして私は、フォアグラや太宰治と同じぐらいカラオケが嫌いになった。
願わくば「小説カラオケ」が発明されぬことを祈るばかりである。マサカとは思うが、私は今さら講談社の社員食堂で働きたくはない。
(初出/週刊現代1995年9月2日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。