バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第105回は、「苦吟について」。
身のほども知らず罠に嵌まった私が愚かであった
忙しい。まことに忙しい。
原稿遅延中のお取引先に対しいささか言い訳がましいが、ものすごく忙しいのである。
蒲団を敷いて寝たのはたしか1週間前のことであり、以後はホットカーペット上でつかのまの眠りを貪るか、座椅子の背に沈んでうたた寝する。昼飯はしばしば食いそびれ、怖ろしいことにここしばらく脱糞の記憶がない。
というわけで、読者の皆様から毎週たくさんいただくファン・レターに返事をしたためることもままならず、心苦しく思っている。有難く拝読し、忙中の活力とさせていただいております。
さて、例年のことながら師走となればなにゆえかくも忙しいのであろうと、真っ黒になったスケジュールを分析して、その原因に気付いた。原稿の量は日ごろとさして変わらない。つまり物を書く以外の仕事が11月の半ばごろから増加しており、ために机に向かう時間が奪われているのである。
インタビュー、パーティー出席、グラビア撮影、打ち合わせ、会食、といった類いの、いわば「営業」が毎日何かしら予定されており、物理的な結果としてメシもクソも忘れて原稿を書かねばならないのであった。
まずいことに私は、性分として営業を好む。早い話が机にかじりついているよりも、千変万化の仕事を好むのである。そこにきて各編集部はおおむね12月の20日ごろから正月の5日かそこいらまで勝手に機能を停止するので、その間の営業仕事が束になって押し寄せる、というわけだ。
とは言え、やはり書斎の外の仕事は面白い。精神衛生上このもしいばかりでなく、見知らぬ人々と未知の仕事をするということ自体、極めて魅惑的なのである。
まあ、こうした事情の中で、先日いそいそと小説現代の主催にかかる新年句会に出かけた。
担当編集者からのファックスには、何となく「座興」「お遊び」というニュアンスが感じられたので、さして深く考えずに快諾したのであった。しかし今にして思えば、伝統と格式を誇る小説誌が、新年の誌面を飾る句会をまさか座興で催すはずはなく、身のほども知らず罠に嵌まった私が愚かであった。
自慢じゃないが俳句といえば五七五の数合わせとしか認識していない私であった。つまりそんな私にとって「神楽坂の待合で句会を催す」という企画は、「よみうりランドでバンジージャンプをやる」というのと、ほとんど同じ意味なのであった。
で、はからずもこれを「座興」と信じた私は、あろうことかお正月用の大島紬(おおしまつむぎ)に総絞りの兵児帯(へこおび)なんぞを締め、甲州印伝の信玄袋に雪駄(せった)をちゃらちゃらと鳴らして神楽坂の会場に向かっちまったのである。
もとより江戸ッ子はノリが良い。ウキウキと石畳の小径(こみち)を抜け、粋な引戸をカラカラと開けて、「えー、女将さんへ。音羽のお招きに与(あずか)りやした浅田でございやす」、などと呼ばわる。
キャラコのあいうらが危ぶまれるほど磨き上げられた梯子段(はしごだん)を登り、大島の袖をポンと突いて、「えー、音羽の版元さんへ。新年あけましておめでとうさんです。このたびは年始めの句会てえことで、ひとつお手やわらかにねがいやす。いや、つるかめつるかめ」
襖(ふすま)をスルスル開けたとたん、私は呆然とした。まさに身のほど知らずであった。座敷はすでに息づまる緊張感に満ちており、お遊びの雰囲気など毛ばかりもない。
音羽の番頭どもが4、5人も雁首(がんくび)そろえてかしこまっている。歳時記やら辞書やらが山と積まれた卓には、こわい顔をした速記者が控えており、カメラマンがバシバシとフラッシュを焚く。
奥の間に目をやれば、上座には俳壇の傑物小林恭二氏がギロリと私の出でたちを睨む。相前後してやってきたメンバーはと言えば、句会の常連谷口桂子氏、佐藤亜紀氏。吉川英治文学新人賞のディフェンディング・チャンピオン薄井ゆうじ氏。今をときめく超売れっ子作家花村萬月氏。挨拶もそこそこに、(ヤロウ、嵌めやがったな)と、担当編集者を睨みつけると、心なしか快哉(かいさい)の笑みを泛(う)かべているではないか。
そりゃ企画としては面白いでしょうよ。大成功でしょうよ。極道作家が斯界(しかい)の義理事でもあるめえに大島紬でバリッと決めて、場違いな句会で五七五を指折り数えるてえの。
こうして私は、バンジージャンプの跳躍台にひとり立たされたのであった。
「句会に参加した作家は仲良くなる」
午後1時。ただならぬ緊張感のうちに句会は始まった。しかも、ルールがまたすごいのである。いきなり各人がそれぞれ題を出せ、という。すなわち6つ出揃ったお題について、60分以内に六句以上を作れ、というのである。まったく心得のない私にしてみれば、1週間で400枚の小説を書けというよりまだ難しい。
せめて自分の題だけでも簡単そうなものをと考え、「冬空」という極めて安直な題を出したものの、並いる俳人の皆さんはまるで私個人を責めるかのように無理難題を提示する。
いわく、「静電気」「時計」「神楽」「軸」「初」。
これでは1時間に六句はおろか、1日かかったって一句もできないのではあるまいかと私は青ざめた。バンジージャンプの方がまだマシだと思った。
苦吟のままに時は刻々と過ぎて行く。人々はさして思い悩むふうもなく、サラサラと短冊に筆をすべらせている。私ひとり跳躍台の上で石になっていた。
突如として妙案がうかんだ。そうか、俳句だと思うからいけないのだ。十七字の短篇小説だと考えればよいのではないか、とものすげえ発想の転換をしたあげく、私は音羽の番頭に原稿用紙を請求した。
するとあらふしぎ、条件反射というかパブロフの犬というか、1時間後にバイク便が原稿取りにやってくるといういつもの切迫感がひしひしとつのり、ほとんど自動書記のごとく筆が進み始めたではないか。
こうしてとにもかくにも、六句をなした。ぴったり1時間後に筆を擱(お)いた私は、まさに気息奄々(えんえん)たるありさまであった。
ふしぎなことに、句を吟じおえてしまうと座は急になごやかになった。午後6時までたっぷりと時間をかけて、それぞれの句を採点し、講評をし合う。まさにバンジージャンプのあとで芝生の上に車座になって、過ぎし緊張の一瞬を語り合う楽しいひとときであった。
後に小林恭二氏から伺った話であるが、この緊張と弛緩との落差が大きければ大きいほど、句会は良いものになるのだそうだ。
やがて私たちは快い弛緩にひたったまま、凩(こがらし)の吹く町に出た。ソバを食い、酒を飲み、夜も更けるまで語り合った。
作家はおしなべてプライドが高く、たとえ泥酔しても己れの本音を語ることがない。プライドを維持すること自体が足場(スタンス)の確認であり確保であるのだから、自然とそうなる。
だがどういうわけかこの夜に限って、彼らはとうとうと書くことの苦しみを口にし、私も珍しく愚痴を言った。
ふと、音羽の番頭が会に先立って言った言葉を思い出した。
「句会に参加した作家は仲良くなる」のだそうだ。要するに、緊張のあとの弛緩がそうした親密な関係を作るのであろう。本来タブーとされている己れの苦悩を晒(さら)し合ってしまえば、たしかにどの方も他人とは思えない。
文壇という慢性的に緊張した閉鎖社会の中で、こうした句会のもたらす福音ははかり知れない、と思った。音羽の番頭は私をうまく嵌めてくれたのであろう。
真夜中の路上で別れたとき、何だか同窓会のはねた後のような気分になったのは、ひとり私だけではあるまい。
年内に400枚の小説をそっくり書きおろし、それとは別に100枚を仕上げ、もちろん2本の週刊誌連載もこなさねばならない。営業スケジュールもつまっている。どう頑張っても、小説現代から依頼されている短篇だけが、年を越してしまう。
初空に 散り残りたる 黄櫨一葉(はぜひとは)
(初出/週刊現代1995年10月7日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。